平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2006年9月24日

2006-12-04 22:44:32 | 2006年
I コリント10章23節~11章1節
  すべて神の栄光を現すために

 「すべてのことが許されている」とコリント教会のある人々は、言っていました。私たちもまた、キリストにあって、そのように理解をしています。イエス様の十字架によって、罪赦された者であり、罪から解放された者である、と考えるからです。ガラテヤの信徒への手紙の5章13節でも「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです」と言われています。
 しかし、その場合でも「ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせず、愛によって互いに仕えなさい」とパウロは、忠告しています。実は、この「すべてのことが許されている」ということを強く主張していた人々は、同じくコリントの信徒への手紙一の6章の12節からのところでもわかりますように、道徳・倫理的にかなり乱れている者たちでした。自分たちの破廉恥な行動を「すべてのことが許されている」という理由で、正当化しようとしていたことがわかるのです。
 パウロは、13節で、「体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです」と言っています。また、「娼婦と交わる者はその体と一つの体になる、ということを知らないのですか。・・しかし、主に結びつく者は主と一つの霊となるのです」と言い「淫らな行いを避けなさい」と勧めています。
 彼らは、「わたしには、すべてのことが許されている」といい、「人が犯す罪はすべて体の外にあります」とも言っていたのです。それは、それだから、体そのものは、清いままだとでも言わんばかりでした。この言葉は、本来でしたら、「」にくくられるべき彼らの言葉ですが、新共同訳でも「」に括られていません。
 青野先生は、この「人が犯す罪はすべて体の外にあります」という言葉もまた、パウロが非難している人々の語っていた言葉だと、指摘されています。しかし、それに対しパウロは、「みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです」と語ります。その理由は、「あなた方の体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」と勧めています。
 「すべてのことが許されている」と言っている人々は、霊的な熱狂主義者だったとも言われています。彼らは、6章からもわかりますように、自分たちは自由であり、すべてのことが許されているというスローガンのもとに、自分たちの性的な乱れも、正当化していたのです。
 それは、自分たちの満足を満たすことでありました。ですから、10章の23節で「すべてのことがわたしたちを造り上げるのではない」と、自由を行使することのなかには、私たちを造り上げることにならないことがあることを言っております。私たちを造り上げるというのは、お互いの徳を立てること、しいては、教会を建てることですが、自由に振舞うことが、教会を建てることにならないことがある、と言っているのです。
 ですから、それに続けて「だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」と、自分を満足させるのではなく、他人の利益、他人が真に満たされるということ、他人の徳を高めるように、互いに高めるように、そして、教会を建て上げるように努めなさいと、言っているのです。
 そこで、パウロは、自由の行使ということで、具体的に、偶像に献げられた肉を食べることを例にとって、語っています。
 まず、当時のユダヤ人たちの食生活についてお話したいと思います。ユダヤ人たちは、適正に処理された肉しか食べませんでした。その慣習は、今もなお変わりません。流れる水で手をよく洗ってから食卓についておりました。もちろん、食物規定で穢れているとされている豚の肉などは決して食べませんでした。
 ですから、律法を守ろうしない穢れた異邦人などとは、決して食事を共にすることもありませんでした。穢れが移ると考えていたからです。特に、この場合、彼らが注意していたのは、その肉が、偶像に献げられた肉かどうか、という問題でした。
 コリントの町には、皇帝礼拝をする場所もあり、そこで献げられたあと、つまり、偶像に供えられてから、市場にでまわる肉も随分とあったようです。他の神々に献げられたものもあったでしょう。ですから、キリスト者となったと言っても、ユダヤ教のしきたりのなかで生活をしてきた人々もいたでしょうから、どう考えていいのかわかないでいたのです。
 ここでは、まず、市場で売られている肉を食べていいかどうかについて、パウロは、答えています。パウロは、「市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい」と教えました。それは、「地とそこに満ちているものは、主のもの」だからという理由です。
 主が創造されたよきものであるのなら、何も問題はないと言っているのです。それが偶像に供えられたのかどうか、そういうことは考えないで食べなさい、このパウロの発言は、当時、ユダヤ人としての慣習の中で生活をしてきていた者たちにとっては、実に、驚くべき言葉でした。それだけ、パウロが自由だったということです。
 また、信仰を持っていない人から招待され、それに応じて、その人の家に行ったならば、そこで「自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい」とも言っています。信仰を持っていない人ですから、それこそ、ユダヤ人のような食べ物に対するこだわりはないわけですから、偶像に供えられた肉を普通に使っていたとも考えられます。
 パウロは、それでも、「出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい」と教えたのでした。
 しかし、そのような自由なパウロでしたが、その自由の行使に関して、彼は、はっきりとした枠を設けておりました。それは、その自由の行使が、何に向かっているかということだったのです。パウロは、この場合でも、もし、「これは偶像に供えられた肉です」と言う人がいたとしたら、その人のため、その人の良心のために、食べてはいけないと言います。
 これは偶像に供えられた肉だと言う人は、そのことにこだわりをおぼえているのです。わりきることができません。どこかで、罪を犯しているという思いがありながら、それを食べるならば、それはどこかで神様を裏切っているという思いがありますから、それは罪ということにならないか、とパウロは考えています。
 そういう人のことは配慮しなければならないのです。これは、同じくコリントの信徒への手紙一の8章に、偶像に供えれた肉について記しておりますので、そこをこことの関連で読むと、ほぼ同じことを言っていますので、より理解が深まると思いますから、8章を見てみましょう。
 まず、パウロは、ここでも、「偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいない」と言います。「ですから、そもそも存在しないものについて、存在しないものに供えられたからといって、気にとめることもないということでしょう。
 パウロは、しかし、このような知識がだれにでもあるわけではないといいます。パウロはこのような考え方ができるからこそ、自由な態度を食物に対してもとれるわけですが、誰もがそのように考えられるのではないことを知っていました。
 「ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが、念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです」と。パウロは言います「わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。」パウロは、ですから、食べ物に対しても自由です。
 しかし、ここでも彼は言うのです。「ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい」、「食物のことがわたしの兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」。
 「自由を得させるために、召し出された」私たちですが、その自由の行使にあたっては、いくつの枠というか、条件というか、原則というか、そのようなものがあります。
 こうした観点からもう少し、他の箇所をみてみましょう、コリントの信徒への手紙の9章の19節からのところです。「わたしは誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです」そして、「ユダヤ人に対してはユダヤ人のように、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました」と続いています。
 「すべての人に対してすべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」。
 以上のことから、私たちは、神様から罪を赦していただき、罪から解き放たれ、自由をいただいた者として、その自由の行使において、いくつかの、先ほど言いましたような条件、あるいは、原則、方向性、そのようなものがあることがわかるのです。
 その第一は、その自由が何に向かっているかということにあります。10章31節には、「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」とあり、神様の栄光を現すために、自由を行使するのです。33節「わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのです」。
 パウロは、ローマの信徒への手紙の15章の1節から3節においても、同じようなことを述べています。「わたしたちは強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。キリストもご自分の満足をお求めにはなりませんでした」。キリストは、自由をご自分の満足のためには、お用いにはなりませんでした。
 11章の1節には、「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」とあって、パウロがキリストを模範としていることがわかります。そして、パウロがそうであるように、あなたがたもそのようであって欲しいと言っているのです。
 イエス様は、ご自分の満足を求められず、人のほんとうの利益、救いを考えてくださり、人を喜ばそうとされ、弱い人の弱さを担ったお方でありました。そのような方向に自分の自由の行使を考えられたお方でした。
 私は、先週、あの盲目の男に対し、弟子たちが尋ねた、「この人が生まれつき、目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親の罪ですか」の問いに、イエス様は、「神の業がこの人に現れるためである」とお答えになったというところから、説教をさせていただきました。彼は、イエス様によって、目が見えるようになりました。その癒しの出来事と、そして、信仰をいただき、ほんとうに自由に生きることができるようになった、その姿こそがまさに、神様のみ業だったのだと、お話をさせていただきました。
 先週が、神様のみ業が私たちの上に現れるという方向についてのお話だとすれば、今日の聖書の箇所は、私たちの行いが、神様のご栄光を現すという方向についてのお話でした。私たちは、神様から自由をいただきました。その自由の行使は、すべて神様のご栄光を現すためです。神様のみ業が私たちの上に現れるというとき、盲人の目が見えるようになったように、神様のなさる私たちには奇跡としか思えないような出来事があります。
 これは、決して自分の行為や努力によって、可能となったのではないということです。しかし、私たちの意志や行動、努力によって起こった出来事だけれども、それをみて、私ではなく、神様ご自身がすばらしいと讃えられるということがあります。
 私は、神様のご栄光を現すというのは、別な言い方をするなら、神様ご自身がそのことをとても喜ばれるということではないかと考えます。偶像に供えられた肉を食べないことは、自分の自由を抑制することですが、その努力によって、ある人々の信仰のつまずきを解消できるのなら、そのことを神様は喜ばれるでしょう。
 あるいは、神様から遠く離れていた人々が、神様のみもとへ帰ってきた、これもまた、神様のご栄光を現すということになるのです。私たちが、バプテスマにあずかることもまた、神様のご栄光を現すことになるのです。
 しかし、この神様のご栄光を現すということですが、これは実は神様ご自身の業とも言えるのではないでしょうか。神様がそのように導いてくださったのですから。そのように私たちを強めてくださったのですから。
 そうしますと、神様のみ業が私たちの上に現れるということも、私たちが神様のご栄光を現すということも、共に、神様が私たちをとおして、働かれる神様ご自身の業だということになりはしないでしょうか。
 すべてにおいて、神様がこの私を捉えてくださることを私たちは願い求め、祈ってまいりましょう。


 平良 師

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