平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2008年5月11日 すべてすばらしいキリストの業

2008-08-05 23:58:21 | 2008年
マルコ福音書7章31~37節
  すべてすばらしいキリストの業

 イエス様は、デカポリスを通り抜けガリラヤ湖畔に出られたときのことです。イエス様のところへ、耳が聞こえず、舌の回らない人を幾人かの人々が連れて来ました。この地は、ユダヤ人からすると異邦人の住む地域と見なされていました。イエス様は、この男の耳を聞こえるようにし、舌が回るようにしました。
 この奇跡を起こす前には、シリア・フェニキア生まれの女性の娘を癒やされていました。彼女もまた、異邦人でした。ユダヤ人にとって、律法を守ろうとしない罪人や異邦人は、救いからもれた人々でした。
 このときには、イエス様もこの女性に次のように言われました。「まず、子どもたちに十分食べさせなければならない。子どもたちのパンを取って、子犬にやってはいけない」それは、子どもたち、つまり、イスラエルの人々に十分な恵みを与えなければならないのであって、子犬、あなたのような異邦人に恵みを分け与えることはよくない、と言われたのでした。
 そのとき、この女性は、「しかし、食卓の下の子犬も、子どものパン屑はいただきます」と、食卓の下にいる子犬が、その家の子どもたちが落としたパン屑を食べることが許されているように、イスラエルの人の恵みのおこぼれに与ることを異邦人の私にもお願いしますと、願い出たのでした。
 それで、イエス様は、それほどまでに言うこの女性の信仰に心を動かされ、娘を癒やされたのでした。そういうことがあったからでしょうか、イエス様は、その後も、異邦人の町や村を巡り、異邦人たちの住むデカポリスを通り、ガリラヤ東岸にやってきたのでした。否、イエス様には、初めから異邦人伝道への意図はおありだったことが他の福音書の記事からもわかります。
 デカポリス(十の都市という意味の名のついた町)を通り、ガリラヤ湖畔に出たとき、そこに人々が、耳が聞こえず、舌の回らない男を連れてきたのでした。そして、彼の上に手を置いて欲しいと願い出たのでした。イエス様は、手を置いて、癒やされるという行為をたびたびしていたものと思われます。
 この場合も、人々は、イエス様にいつものようにこの男にもお願いしますと、言ったのでしょう。当時は、こうした障害を負っているということは、本人の罪か、家族や先祖の罪の結果だと、或いは、悪霊につかれているのだと、考えられていましたから、手を置いてもらうことは、病や障害の癒やしだけでなく、罪の赦し、悪霊を追い出すというようなことまでもが意味されていたのでした。
 それでも、この男は、まだ、恵まれていました。それは、彼を連れてきてくれる家族か仲間がいたということなのです。彼は、その点、孤独でありませんでした。彼のことをおぼえてくれる人々がおりました。彼らが、この男を連れてきたのでした。
 このような障害を持っている人々は、社会からは罪ある者、悪霊に取り付かれている者といった見方をされていましたから、疎外されていたのです。しかし、そのような中にあって、幸いにも彼には、幾人かの家族や仲間たちがいたのでした。
 今日、家族の日の礼拝を私たちの平尾教会は守っておりますから、そういった意味では、この箇所は、私たちに大へん重要なことを指し示していると言えます。それは、何かと申しますと、イエス様のところへこの男を連れてきた彼の家族や仲間たちの存在は、私たち教会の一人ひとりではないかと思えるということです。
 私たち、すでにキリスト者となった者は、あるいは、まだ、そうではないけれども、イエス様を受け入れている方々は、イエス様のところへ人々を連れてきます。イエス様のところというのは、それは教会です。もちろん、イエス様のところというのは、教会だけかというとそうではないでしょう。しかし、教会は、御言葉が語られ、礼拝が奉げられているところですから、イエス様のところとしは、とてもわかり易い場所と言えるのです。
 教会の一人ひとりの務めは、教会に、イエス様のところへ人々を連れてくることです。この男のように、真実に救いを求めている人々をお連れするのです。そして、この男に代わって障害の癒やしを願い出たように、お連れした方々の救いを願い求め、祈るのです。
 ただ、今日、ここに来られた方々が、すべて、ご自身の救いを願われているかというと、今日は、家族の日礼拝というので、お誘いを単に受けたので来ましたという方々もおられると思いますから、この障害を抱えて苦しい状況の中で生活をしており、それに対してみるに見かねて、家族や仲間たちが本人を連れてきたというのとは、違うとは思いますから、どうぞ、気を悪くなさらないでください。
 ただ、救いというのは、現在苦しい状況にある者、苦しい状態に置かれている者が、その苦しみから解放されるというだけでなく、罪ゆえにいずれ滅びゆく存在であるこの自分が、神様から赦され永遠の命を約束していただくということであります。否、すでにイエス様の支配にすべてを委ねてこの世で生きていくときに、それはすでに神の国に生きる者になっているということを意味しており、それはしなやかで自由な生き方ともなって、そういうことが救いに与っていることなのだということなのだとの解釈もあります。そう考えますと、救われるということは、実にすばらしいことではないでしょうか。
 この救いにどうしてもあずかって欲しいと願うのは、それもその方が身近な存在であればあるほどに、そうした思いを募らせることは至極当然のことです。そして、ある人を教会へお連れするというとき、私たちはその方の救いを願いつつ、同時に、その方にこのキリストに従う自分をもまた理解して欲しいという、願いを持っているものなのです。つまり、気持ちの通い合いをさらに求めているのではないでしょうか。
 今日は、家族の日の礼拝です。家族とは、共に生きていくようにと神様が与えてくださったメンバーです。教会に来ている者たちも、一人ひとりが神の家族と言われます。教会の家族もまた、神様が呼び集めてくださった一人ひとりです。私たちは、互いの存在に感謝しています。
 なんとすてきな家族をこの私に神様は与えてくれたことでしょう、そのように皆さん、思っておられるでしょう。世界中では、今日は母の日です。母親には感謝しなければなりません。私たちの知らないところで母親ほど、家族全体のことを思い苦労しておられる人はいないからです。しかし、教会では、最初に説明致しましたように、この日を家族の日としておぼえ、家族それぞれに感謝を表す日としておぼえているのです。そして、この家族のかなめ石は、イエス様です。
 「キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となる」とエフェソの信徒への手紙2章21節にあります。ですから、私たちは、それぞれの血のつながりのある家族も、教会の神の家族も共に、イエス・キリストをそのかなめ石としてすえるときに、血のつながりのある家族も神の家族も、それぞれは、聖なる神殿として建っていくのであります。
 イエス様は、この男を彼の抱えている苦しみから解放してくださいました。彼は、耳が聞こえないために、うまく話すこともできず、意思疎通を図ることも他の人々のようには上手にはできなかったでしょう。第一、彼を見守ってきてくれたとは言え、そうした周りの人々から、真実に理解されること自体が、難しかったのではないでしょうか。
 現代は、いろいろな意思疎通の手立てがありますし、周りの人々のこうした障害を持っている方々への理解も、当時とは随分と異なり進んでいるでしょう。しかし、イエス様の時代は、耳が聞こえず、舌がうまく回りませんし、発する音声などから、悪霊に取り付かれているといった見方をしていた人々も少なからずいたのでした。
 イエス様は、この男の病、障害を癒やされました。ただし、イエス様はこのとき、彼だけを群衆の中から連れ出しました。つまり、イエス様は、彼と一対一で出会うことを願われたのでした。
 救いのみ業は、神様と私といった、一対一の関係でしか生まれないことを教えられます。そして、指をその両耳に入れ、それから唾をつけてその舌に触れられ、そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、エッファタと言われたのでした。このエッファタというのは、開け、という意味でした。耳が開く、音が聞こえてくる、そうなりました。それと同時に、舌のもつれも解けて、はっきりと話すことができるようになりました。
 これまで、自分の思いを何とか伝えたいと思ってもできなかった、相手が、どのように考えているのか一生懸命理解しようとしても、すれ違いばかりだった、それが通うようになりました。彼の塞がりは、耳だけではなく、心も同じように、気持ちが通じないというところからくる塞がり、差別的な目で見られているという塞がり、そうしたことからくる塞がりがあったことでしょう。そのような心の塞がりも開かれたのでした。彼は、このときすべてから解き放たれて、本当に喜んだのでした。
 彼を連れてきた人々も同様に、一緒になって共に喜んだことでしょう。私たちは、ここに、まさに、教会のあるべき姿を見るのです。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」(コリント一12:26)とあるとおりです。
 イエス様は、彼らに、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされました。それには、いくつかの理由が考えられます。
 例えば、自分が十字架につくときは、まだ来ていないので早々に騒がれては困るとか、旧約聖書に書かれているようなイメージのメシア、キリストとして、その生涯を閉じられるのではないので、誤解されてはいけないとか、つまり、華々しい王のような力強いメシアとしての救い主ではなく、最後には、無力なうちに、世の罪を取り除く小羊として十字架につけられてしまう、そのようなメシアとしての最後を遂げられるわけで、誤解をして欲しくない、そのようなことを懸念されたのではないかということです。
 しかし、実際、旧約聖書イザヤ書35章の4節から6節などにも記述されているようなことをイエス様はなさっておられたのでした。「神は来て、あなたたちを救われる。そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」。まさに、ここに予言されているような事柄がイエス様によって、行われていたのです。
 しかし、口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めたのでした。人々の喜びを抑えることはできませんでした。なかには、このお方こそ、旧約聖書で予言されているメシア、キリスト、救い主ではないか、と考えた者も当然大勢いたことでしょう。そして、言うなと言われれば、言われるほど、言いたくなるのが人の思いでした。彼らは「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」と言ったのでした。
 私たちは、今日、教会にそれぞれの家族を招きました。教会の神の家族として招きました。招いた者は、イエス様が、すばらしいお方であることを既に知っております。それぞれの人生において、すばらしいことを成してくださった、そうした体験を数限りなく持っているからです。
 どうしてよいのか見当もつかない、八方塞だったとき、心が萎えて、立ち上がれなかったとき、そのようなときに、イエス様が、「開け」そう言われて、解決に導いてくださったことを、心が解放され再び立ち上がることができたことを、私たちは知っているのです。
 そして、まだ、イエス様を救い主として受け入れていない方も、きっとこのようにイエス様のことを言われる日が来ることでしょう。「この方のなさったことはすべて、すばらしい」。イエス・キリストを伝えるということが、私たちにとっては愛を伝えることなのです。あなたのことを愛しているという代わりに、私たちは、イエス様のことを伝えるのです。
 家族に伝えるのです、神の家族になって欲しいと、家族や知人にイエス様を伝え、教会にお招きするのです。言うなと言われれば言われるほどに、沸きあがる喜びを抑えきれずに語るのです。「この方のなさったことはすべてすばらしい」。
 イエス・キリストを救い主として受け入れるとき、そして、そして、受け入れた後の生活においてはさらに、この言葉が真実であることを私たちは幾度も幾度も知ることになるのです。「この方のなさったことはすべてすばらしい」。

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