平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2006年12月10日

2007-03-10 18:19:35 | 2006年
ルカによる福音書1章26~38節
   善き力に守られつつ

 「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名づけなさい。その子は、偉大な人になり、いと高き方の子と言われる」。この突然の知らせにマリアは驚いたことでしょう。
 マリアは、いったい何事が起こるのだろうかと、恐れたことでしょう。彼女のこれから夢描いていた人生にこの出来事は、いきなり飛び込んできたのです。予期せぬ出来事が起こったのでした。
 彼女は、「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と天使に言いました。天使は、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」しかし、そう言われて、ますます、恐れを抱いたのではないでしょうか。
 このとき、とっさに、いいなずけのヨセフの顔が、浮かんだかもしれません。ヨセフとの関係はどうなるのでしょうか。律法に基づくユダヤ社会の中で、彼女は窮地に立たされることになるでしょう。実際、おめでとうと天使から言われても、ありがたいという思いよりも、当面見えてくるのは不安な材料ばかりだったのです。
 しかし、ついには、マリアは言いました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と。つまり、神様の御心が行われますようにと、言ったのでした。
 イエス様が、ご自分の十字架を前にして、ゲッセマネの園でお祈りをされたときに、「この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と言われました。キリストは、わたしが願うことではなく、御心が行われますようにと言われたのでした。
 イエス様が、願ったことは、この杯を取りのけてくださいということでした。それは、この十字架にかかるという自分の定めを何とか回避できる道はないものかということだったのです。それでも、最後にはイエス様は、神様の御心が行われますようにと、父なる神様に従う道をむしろ選ばれました。
 イエス様が、わたしたちにすべてのことを教えてくださいました。模範を示されました。イエス様は、十字架という死の苦しみを前にされたとき、このように祈られたのですが、私たちもまた、自分に与えられた主からのあるときには苦い杯をどのように受けるべきかを、イエス様は示してくださっているのです。
 さて、ボンヘッファーの1944年に作った詩に、別の人が1970年に曲をつけてできた賛美歌があります。新生讃美歌73番「善き力にわれ囲まれ」という讃美歌です。何度もこれまで歌っておりますが、説教の応答の讃美歌として、今日もあとで歌いたいと思います。このような歌詞です。
 「善き力にわれ囲まれ/守り慰められて/世の悩み共にわかち/新しい日を望もう/過ぎた日々の悩み重く/なおのしかかる時も/さわぎ立つ心しずめ/み旨に従いゆく」そして繰り返しの部分になりまして「善き力に守られつつ/来るべき時を待とう/夜も朝もいつも神は/われらと共にいます」。そして、2節は「たとい主から差し出される/杯は苦くても/恐れず感謝をこめて/愛する手から受けよう/輝かせよ主のともし火/われらの闇の中に/望みを主の手にゆだね/来るべき朝を待とう」そして、繰り返しの部分です。
 「善き力に守られつつ、来るべき時を待とう、夜も朝もいつも神は、われらと共にいます」。
 ベートゲという人が、ボンヘッファーとその友人や家族たちとの獄中書簡集(新教出版社)を編集しています。その訳を村上伸という方が、しておりまして、その訳者のあとがきで、ボンヘッファーのことについて、説明しておりますので、紹介したいと思います。
 「デートリッヒ・ボンヘッファー(1906-45)ドイツのプロテスタントの牧師。わずか21歳の時、ベルリン大学で抜群の論文を書いて神学博士の学位をとり、学界に認められた天才的な神学者。ナチスが政権を取ったその当初から鋭い批判を行い、ナチスに対峙した告白教会の中で最も尖鋭な論陣を張っただけでなく、ユダヤ人迫害に抗して声をあげたごく少数の人々の一人。
 ガンジーを尊敬する平和主義者。だが、生涯の最後の時期に悲痛な決断をして国防軍内部の地下抵抗運動に身を投じ、ヒットラー暗殺計画に加わった抵抗の闘士。1943年4月、有名な『7月20日事件』の14ケ月ほど前に別件でゲシュタボに逮捕され、ベルリンのテーゲル軍刑務所につながれ、同じくプリンツ・アルブレヒト通りのゲシュタポ監獄、ヴァイマール郊外のブッヘンヴァルトなどを転々とした後、1945年4月9日、フロッセンビュルク強制収容所で絞首刑。39歳。」
 ボンヘッファーは、コルベ神父、マルチン・ルーサーキング牧師、ロメロ大司教らと並んで20世紀の殉教者の一人と言われています。
 さて、先ほどの賛美歌の詩は、このボンヘッファーが、獄中にいるときに作ったものです。1944年の暮れということです。この詩を作って、半年もたたないうちに、彼は処刑されたのでした。この詩には、獄中にありながらも、新しい年に向けての希望がなお語られています。それでいて、どこかで、神様を信頼し、神様の御心を受け入れようという、耐え忍んで従おうとする思いもまた、感じられる詩です。
 ボンヘッファーがヒットラーの暗殺計画に加わったことについては、二つの評価があることでしょう。特に、たとえ相手が、よほどの悪人であったとしても、その殺害を企てるということが、「殺すな」という十戒などの観点から許されるかどうか、キリストの教えられている非暴力、無抵抗、平和主義、また、裁きは神様にお任せするということに照らして、彼の行動はどうだったのか、などの批判であります。
 ボンヘファーの言い分は、正確ではありませんが、おそらく次のような内容だったかと思います。あるトラックが、暴走して人をどんどんひき殺していくときに、危ない危ないと傍らで見ているだけではだめだ、その運転している人間を早く運転席から引きずり降ろさなければならない、というものでした。
 彼は、平和主義者でありましたが、その彼がなした苦渋の選択だったのです。少なくとも、彼は、プロテスタントの牧師でしたからもちろんユダヤ人ではありませんでしたが、当時のナチスが支配するドイツにあって、多くのドイツ人が黙っているなか、真っ向からユダヤ人迫害に対して否という声をあげた一人でもありました。なぜなら、ユダヤ人は、ナチスの政策によって、当時、数百万人が強制収容所に送られ、その多くはガス室で虐殺されていったのですから。
 マリアが、天使からみ告げを聞いて、しばらくしてから、ヨセフは、いいなずけのマリアが妊娠していることを知り、ひそかに縁を切ろうと決心したのでした。
 彼の苦しみは、まさかあのマリアがという、人をもう信じられないというものでした。そのとき、天使が夢に現われて「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と聞かされたのでした。
 そして、ヨセフもまた、眠りから覚めると、天使が命じたとおり、マリアを迎え入れたのです。ヨセフもマリアも、心の葛藤はなかったなどとは、思えません。彼らは、苦しんだ末に、主の御業を受け入れたのではないでしょうか。
 マリアも、ヨセフも二人とも、すべてが幸せのなかの選択ではなかったのです。いや、それどころか、どちらかというと、共に苦しみと不安を押しのけての、選択でありました。
 「たとい主から差し出される、杯は苦くても、恐れず感謝をこめて、愛する手から受けよう」もともとの詩は、「そしてあなたが、重い杯を、苦い苦しみで今にも溢れんばかりに満たされた杯を、われわれに渡されるなら、われわれはそれを、ふるえもせず、あなたの良い、愛に満ちた手から受けよう」となっています。
 わたしたちもまた、自分たちの人生にあって、この主からの苦い杯を渡されるそのときがあるものです。しかし、その渡される手は、決して冷たい手ではありません。むしろ神様の「愛に満ちた手」であるのは、間違いないのです。そのような手であることを信じながら、その杯を受け取るのです。
 私たちは、イエス様が、この世に来られたということの意味を考えます。私たちのために来られたのです。イエス様は、最初にマリアとヨセフのところへ来られました。マリアとヨセフの人生はどのようなものだったのでしょうか。
 聖書において、ヨセフは、ダビデの末裔だったということですが、彼にはそれだけの意味しかなかったかのような描かれ方です。彼は聖書のなかで、一言のセリフも語らず、あっという間に姿を消しています。また、マリアは、最後に、わが子の十字架を目の当たりにしなければなりませんでした。心はりさけんばかりの事態に、彼女は取り乱したことでしょう。
 しかし、二人には、初めからイエス様が共におられたというところに、祝福があったのです。そして、この祝福以上のものがあるのでしょうか。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」そう、天使はマリアにあいさつをしました。また、ヨセフが天使からマリアを受け入れるように、告げられたとき、預言者を通して言われていたことが実現するためであったとして、その聖書の箇所をマタイは引用しております。
 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」と、インマヌエルというのは、「神は我々と共におられる」という意味ですから、そのようなお方が、この世に来られたということを強く言っているのだと思うのです。
 そして、誰よりもまずヨセフとマリアにそうであられたのです。「神が我々と共におられる」。二人とも、イエス・キリストが来られて、いわゆるこの世的に幸せだったというような描かれ方はされていませんが、しかし、「神が共におられた」、その出来事が最初にこの二人に起こったのです。そのことを聖書は語っております。
 「良き力にすばらしく守られて、何が来ようとも、われわれは心安らかにそれを待とう。神は、夜も朝もわれわれのかたわらにあり、そしてどの新しい日も必ず共にいまし給う」。
 イエス・キリストは、インマヌエルの神であられます。このインマヌエルの神は、どのようなときに、そうあられるのか、もちろん、それはいつもそうであられるのです。「神われらと共にいます」そのようなお方なのですから、24時間、365日、いつも私たちと共にいてくださるのです。
 しかし、マリアがそのことを告げられたのは、彼女が、イエス・キリストを宿すという、その知らせを受けたときでした。不安におののいたそのときに、「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」と言われたのです。ヨセフもまた、ひそかにマリアと縁を切ろうとしていたときに、生まれてくる子は、「神われらと共にいます」インマヌエルの神であることを知らされるのです。
 そして、この詩を作ったボンヘッファーもまた、「何がこようとも、われわれは心安らかにそれを待とう」とこれから予想されるであろう、自分にふりかかってくる死の予感のなかで、「神は、夜も朝もわれわれのかたわらにあり、そして、どの新しい日も必ず共にいまし給う」と歌っているのです。
 主がともにいますのは、24時間、365日であることはもちろんですが、しかし、特に、主は、わたしたちが、主から与えられるその定めをうけとるときに、共におられることをことさらに強く告げられるのです。その定めの杯は、ときに苦い苦しいものもあるでしょう。しかし、杯をもつ主の手は、愛に満ちた手であります。
 「善き力に守られつつ、来るべきときを待とう、夜も朝もいつも神は、われらと共にいます」。マリアを包んでいた神様の力を思います。イエス様をやどし、出産までの間、不安におののくこともあったでしょうが、しかし、神様の善き力が守りつづけられたことでしょう。
 「マリア、恐れることはない」。天使は、このようにマリアに言いました。その根拠は、「主があなたと共におられる」からです。
 2000年前、イエス・キリストは、わたしたちのためにこの世に来られました。その神様は、いつも、そして苦しいつらいときには特に、共にいてくださる、インマヌエルの神様です。
 そのイエス・キリストの善き力に包まれながら、それぞれに与えられた人生を、そこには主の御心が私たちの思いをはるかに超えて、働くときがあるのですが、そのときこそ、強く共にいてくださるのですから、その与えられた、備えられた人生を歩んでまいりましょう。主が共におられます。

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