平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2019年9月29日 女性は教会で黙るべき?

2020-02-17 23:21:19 | 2019年
第一コリント 14章33b節〜36節
女性は教会で黙るべき?

 津和野(新幹線新山口駅から山口線で北上、別名「山陰の小京都」と呼ばれる端正な城下町。森鴎外・画家の安野光雅の出身地)。近くに青野山(標高908メートル)(どこから見てもお椀をかぶせたような山)がすぐ南にあり、小学生のころに地図で見つけていた山で、ずっと行ってみたかったのですが、二年前に津和野での教団西中国地区の牧師研修会の講師として招かれて、初めて訪問することができました。 

 江戸幕府のキリスト教禁令は明治政府になっても引き継がれ、1868年(明治元年)には、長崎の浦上村で捕らえられたキリシタン村民たちの多くが流罪となって津和野で弾圧されました。遠藤周作の『女の一生<一部>キクの場合』の主人公キクも津和野に送られています。各藩の中でも津和野藩の拷問は特に陰惨を極めたと言われ、現在乙女峠には、記念のチャペルや記念碑があり、私は妻とともにそこを訪れることができました。欧米へ赴いた岩倉使節団一行は、キリシタン弾圧が条約改正の障害となっていることに驚き、本国に打電したことから、1873年(明治6年)に、キリシタン禁制はようやく廃止され、1614年(慶長19年)以来259年振りに日本でキリスト教信仰が公認されることになったのでした。紹介されてお会いすることができた津和野カトリック教会の神父さんが「とてもいい話ですね」と話してくれたのは、棄教した人たちが迫害になお堪えている人たちを熱心に助け続けたという事実で、乙女峠にある記念の大きな銅版画にもその事実は描かれていました。

 さてこの津和野はまた、さだまさしの「案山子」(かかし)がここで作詞作曲されたことでも有名です。研修会のあとに妻と泊まったホテルは、偶然にもかつてまだ若き日のさだまさしも泊まったホテルとのことでした。津和野には、城壁しか残ってはいませんが、町を見下ろす山城があり、そこにも登って、さだまさしの「案山子」の歌詞を思い起こしました。ご存知の方も多いでしょうが、こんな歌詞です。
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案山子(かかし)

元気でいるか 街には慣れたか 友達出来たか
寂しかないか お金はあるか 今度いつ帰る

城跡から見下ろせば 蒼く細い河 
橋のたもとに 造り酒屋の レンガ煙突
この町を綿菓子に 染め抜いた雪が
消えればお前がここを出てから 初めての春
手紙が無理なら 電話でもいい
「金頼む」の 一言でもいい
お前の笑顔を 待ちわびる おふくろに聴かせてやってくれ

元気でいるか 街には慣れたか 友達出来たか
寂しかないか お金はあるか 今度いつ帰る

山の麓 煙吐いて 列車が走る
木枯しが雑木林を 転げ落ちてくる
銀色の毛布つけた 田圃にぽつり
置き去られて雪をかぶった 案山子がひとり
お前も都会の雪景色の中で ちょうどあの案山子のように
寂しい思いしてはいないか 体をこわしてはいないか

手紙が無理なら 電話でもいい
「金頼む」の 一言でもいい
お前の笑顔を 待ちわびる おふくろに聴かせてやってくれ

元気でいるか 街には慣れたか 友達出来たか
寂しかないか お金はあるか 今度いつ帰る
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 この「案山子」については、さだファンのあいだで、いったい誰の立場からこの歌は作詞されているのか、についての「論争」がかつてありました。「おふくろに聴かせてやってくれ」だから、当然「兄から弟へ」の歌だろう、それとも、「おふくろ」とは「おかあさん」と同様に、父が母のことをそう呼んでいるのであって、これは「父親から息子へ」の歌ではないのか、などなど。私は初めから、後者の解釈をしておりまして、離れていた息子たちへの、この「父親」の胸を締めつけられるような切ない思いをよく口ずさんでいました。
 さてそこに、さだまさし自身が登場しました。そして、これは「兄」が「弟」に向けて歌っている歌だ、と話し、本にもそう記しました。本人がそう言うのだから、そうなのでしょうが、しかし、多くの「親たち」はそれでも承服しませんでした。すでに出来上がった作品には、作詞家の意図を越えて、解釈の自由がゆるされているのではないか、と。
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 さて、今日の聖書の箇所の、パウロが書いた第一コリント書の14章34~35節の部分(便宜上(A)とします)は、とてもひどい言葉ですが、いったいそれは誰が書いた文章なのかについて、大きな論争があります。以下、そのことについてしばらくご一緒に考えてみたいと思っていますが、残念ながらここでは、さだまさしの場合とは異なって、パウロ自身は現われてくれません。ですから、ご本人がいないところで、いろいろと想像を逞しくして、議論せざるを得ないようです。

まず、この部分(A)を読んでみましょう。実に読めば読むほど、ひどい言葉です。

 (A)「(34)婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されてはいません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。(35)何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい。婦人にとって教会で発言するのは、恥ずべきことです。」

 14章で「異言と預言」について語ってきたパウロが、突然まったく文脈を破る形でこのように語り始めたのはなぜなのか、多くの人を驚かせてきた発言です。もしもこれがパウロの真正の言葉であるとしたら、この発言は「大問題」だしか言いようのないようなひどい類のものでしょう。A・C・ワイヤー女史の説についてはあとで検討しますが、仮にこのように語るパウロに正当な理由があったとしても、それが「大問題」であることには変わりはないでしょう。
 しかし私には、この段落は、大半の研究者が想定していますように、大略以下のような理由からして、ほぼ確実にパウロ後の「別人」の発言だろうと思われます。それはおそらくもともとは、極めて早い時点で本物のパウロの手紙(紀元50年代)の写本の欄外に書き記されたメモ(marginal note)だったのであって、それが誤って本文の一部とみなされたために、ここに紛れ込んでしまったのだろう、というわけです。そしてその「別人」とは、第一テモテ書の以下のような考え方に深く共鳴しつつ、大きな影響をそこから受けていた人だったのだろうと思われます。

 その「別人」が影響を受けたと思われる第一テモテ2章11~12節、および15節では、次のように言われています。便宜上この部分を(B)と表示します。

 (B)「(11)婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。(12)婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、私は許しません。むしろ、静かにしているべきです。」「(15)婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます。」

 第一テモテ、第二テモテ、そしてテトスへの手紙の三つは、ふつう「牧会書簡」と呼ばれますが、手紙そのもののなかには、やはりそれらもパウロによって書かれたものだと明記されています。しかし、今日の新約聖書学は、神学的な内容、およびそこで用いられている用語・語彙の相違からして、それらの手紙はパウロの弟子のそのまた弟子が(紀元100年以降に)書いたものだとして、「第三パウロ書簡」と呼んでいます。パウロの弟子が書いたとされる「第二パウロ書簡」としては、エフェソ書、コロサイ書、第二テサロニケ書がありますが、それらは紀元80年頃に書かれたと考えられています。新約聖書にはパウロの手紙として13の手紙が収められていますが、真筆のパウロ書簡は、上の6つの手紙を除いた7つしかない、というのが、今日の新約聖書学のほぼ定説です。第二パウロ書簡と真正のパウロ書簡との間の区別はときに難しいことがありますが、第三パウロ書簡との相違は、一読すれば、ほとんど否定することのできないほど明らかなものです。ぜひ一度、じっくりと第一、第二、第三パウロ書簡を読み比べてみてほしいと切に願っています。
 「パウロが書いたと言っているのだから、それらはパウロが書いたに決まっているではないか」と聖書を重んずる姿勢を保持したとしましても、「女性は教会では黙っておれ」というようなひどい内容は、ほとんどの人が、とくにほとんどの女性たちはまったく無視しているのが実情だと思われます。そんなことは実際、実行不可能に近いからです。しかし私は、そろそろこのあたりで、この平尾教会のなかでは、次のことは確立されたものとして受け止めていったらどうか、と思っています。すなわち、パウロの第二、第三パウロ書簡が存在するという事実は、当時の受け止め方からしたら、決して「偽りの行為」をして「偽書」を作り上げたというような「詐欺的な行為」であった、などと考えてはならないということ、師の思想を弟子が師の名前で展開するという考え方は、当時においては何ら不正なことではなかったということ、したがって、現代の「正義感」とか「倫理観」をそこに直ちに持ち込んで判断をしながら、パウロが書いたとされている13の書簡は、すべておしなべてパウロ自身が書いたものなのだ、などと考えるということは避けなくてはならないのではないか、ということです。そして、上でも述べましたように、よくよくこれらの書簡群を「深読」してみたら、そこには真正なパウロ書簡とそうでない書簡との間の明確な「相違」が存在しているということを、そろそろ私たちはしっかりと認識するようにならなくてはならないのではないでしょうか。
 こうした問題は、またいつかそれとして取り上げて、ご一緒に考えてみたいと思っています。なぜならば、現代の、とくにアメリカの南部バプテスト連盟のなかの、逐語霊感説に基づいた原理主義的な捉え方によって、「女性が牧師になるというようなことは、女性が男性の上に立つこと以外の何物でもない」ので、そんな考えを持っている牧師・宣教師は「追放してしまわなくてはいけない」という考えに支配されて、実際にそれを実行してしまうということが起こってしまったからです。世界の多くの宣教師たちは解雇されてしまいました。西南学院の宣教師たちも解雇されてしまいました。しかし西南学院では、彼らを継続して文字通りに「雇用」しましたので、多くの宣教師がその働きを続けることができたのでしたし、そして何人かは今でもできています。

 元に戻って、(B)の部分は、再び、何というひどい言葉でしょうか。この部分には、先に「別人の言葉の挿入」だと私が推定した第一コリント14章の箇所(A)との間で、内容的な一致があり、さらにはこんなに短い文章にしては、かなり多くの語彙の上での一致と共通点が見い出されます。それは単なる推定ではなくて、実際に原語のギリシア語における多くの一致と共通点です。
 すなわち、第一コリント14章(A)/第一テモテ2章(B)という形で比較して見ていきますと、婦人/婦人、知りたい(原語は「学びたい」)/学ぶべき、従う者であれ/従順に(同じ動詞に遡る)、許されてはいない/許しません、夫/男(同じ単語です)、などです。(A)の第一コリント14章34節における「律法」への言及も、上で引用をしなかった(B)の第一テモテ2章13~14節に書かれている部分のことを指している可能性が高いでしょう。すなわち、「なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。」創世記のこの記事は、キリスト教のなかで、女性を貶(おとし)めるために、なんとしばしば用いられてきたことでしょうか。男性のアダムだって、ほぼ同罪であったのに。

 第一コリントのこの箇所(A)が誰か「別人」の発言であることは、その部分がパウロ自身の他の発言と明らかに矛盾していることからも言えるでしょう。まず、第一コリント11章5節では、パウロはこう言います。「女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります。」このような、パウロが大事にしていた当時の習慣を今日私たちがどう評価するか、意見の分かれるところですが(つまりカトリック教会の大部分では、今日でも女性は頭に覆いをかぶっています)、しかしいずれにしてもパウロはここで、女性が教会で「祈ったり、預言したりする」ことは、まったく問題視してはいません。つまり女性が教会で沈黙を強いられているわけではない、ということが大前提になっています。「教会で」とは書いてないではないか、と反論する人もいますが、パウロが女性はどこにいても、つまり家でも、頭に覆いをかけなくてはならない、などと言っているとは、到底考えられないでしょう。パウロのこの手紙はコリントの教会において(!)朗読されたことは明らかですので、これは教会の礼拝空間での話、とするのが妥当な解釈だと思われます。
 「別人」の言葉(A)のなかの、「家で自分の夫に聞きなさい」(35節)という言葉も、独身であったパウロが、そして第一コリント7章25節以下などでは未婚の人たちについて繊細な配慮をなしているパウロが、当然のようにして口にする言葉では決してないでしょう。しかし、(B)の第一テモテ2章15節の「(女性は)子を産むことによって救われます」という、独身の女性にとっては、あるいは望んでも子どもが与えられない既婚の女性にとっては、「酷い」としか言えないこのひどい言葉から影響を受けているこの「別人」にとっては、「家で自分の夫に聞きなさい」という言葉は、至極当たり前のものだったのでしょう。

 では、なぜこの「別人」は、第一コリント14章の「異言と預言」についての段落(便宜上、その段落を(C)とします)の近くの欄外に、このようなメモを書き記したのでしょうか。おそらくそれは、パウロの(C)のその「異言と預言」の段落のなかに、この「別人」の意識を刺激する文言があったからではないか、と研究者たちは考えています。つまり、その段落(C)におけるパウロの二回の「黙りなさい」(28節、30節)、そして「従属する」(32節)という用語がこの「別人」を刺激して、「婦人たちは教会では黙っていなさい」(34節)、そして「婦人たちは従う者でありなさい」(同じ34節)というメモ(A)を書かせたのでしょう。この「従う者」とは、(C)のなかの「従属する者」の意味で、まったく同じギリシア語の動詞が使われています。(B)の第一テモテ2章11節の「従順」もまた同じ動詞に遡ることには、すでに上でふれました。要するに、この「従属する」という動詞は、パウロの真正の「異言と預言」の段落(C)と、(A)の「別人」の挿入段落と、(B)の第一テモテの類似の段落と、三つに共通して登場してくるキーワードとも言うべき用語だったと言ってよいと思われます。

 ところで私の恩師の荒井献先生(東大名誉教授)は、第一コリント14章を書き写している現存するすべての写本が、この34~35節(A)に言及していて、ひとつとしてその部分を欠いている写本がないことを重要視されて、やはりこれはパウロの真正な発言だとしか思えない、と判断されています。しかし、私の意見では、もしもその「別人」の欄外メモ(A)が極めて早い時点で書かれたのだとすれば(そして実際150年前後に活躍したマルキオンも、すでにこの部分を含んだ写本を知っています!)、現存するすべての写本がこの「別人」のメモ(A)を誤って本文のなかに入れてしまった写本を写したものであるという可能性は十分に考えられると思います。実際、私たちが手にしている写本のうちで最も古いシナイ写本やバチカン写本でも、4世紀半ば、すなわち350年以降のものなのですから、そのような可能性は簡単には否定できないと思います。
 そしてもうひとつ、写本の証言に関して極めて注目すべき事実があります。それは、今言いましたように、現存するすべての第一コリント14章についての写本がこの部分(A)を証言してはいるのですが、しかし西方写本のいくつかが、この34節と35節の二つの節を、現在の場所にではなくて、40節のあとに、つまり14章の末尾に置いている、という事実です。すなわち、6世紀のD写本、そしてF、G写本などです。そしてこの(A)のようにすべての写本が証言している本文のなかで、単独のひとつの文章が、ではなくて、ここの場合のように複数の(ここの場合は5つの)文章を含むブロックが、ブロックごとごっそりとその位置を移動させられている例は、新約聖書のなかではここにしかないのです。(ローマ16章25~27節においてもブロックごとの移動が見られますが、しかしその部分全体を欠いている写本があったりするために、全体に[ ]がつけられて、その真正性に疑問が付されています。しかし残念ながらこの(A)にはそのような[ ]がつけられていませんので、差し当たってはそれをパウロの手によるものとみなすことから出発しなくてはなりません。)これはいったい何を意味しているのかと言いますと、この段落が文脈をひどく破っている独立した単元だったとそれらの写本は判断した、だからそれを14章の末尾に移動した、ということです。つまり、荒井先生が言われるように現存するすべての写本がこの部分を証言してはいても、それが現在置かれている場所においてピッタリとフィットしていると受け止められたかと言えば、それは疑問だ、と判断した写本がある、ということです。それはすなわち、この部分がもともと現在の場所にあったということを認めていない、すなわち全体の文章の流れのなかでのこの部分(A)の有機的な関連を認めていない、ということでもあります。そしてその事実は、この部分がパウロより後代の加筆であったということを、少なくとも間接的に示唆している、ということになります。

 今日の聖書箇所である34~36節の3つの節のうち、最後の36節の「それとも、神の言葉はあなたがたから出て来たのでしょうか。あるいは、あなたがたにだけ来たのでしょうか」という文章は、やはり「別人」の文章なのでしょうか。ほぼ確実にそうではない、と言ってよいと思われます。なぜならば、この36節を含んだまま34~35節とともに移動させている写本はまったくありませんし、何よりも、この「それとも……、それとも……」という語り口は、パウロに特徴的だと言ってもよいほど多く、つまり15回も見出されるからです。他方で「牧会書簡」のなかでは、この言い方はまったく用いられていません。実際、「神の言葉はあなたがたからか……」という言い方は、「神から」の「啓示」に基づくはずの「神の言葉」とは正反対の事態を言っているわけですので、それは、「異言」を「神から」のものとして強調していたコリント人たちに対する、いかにもパウロらしい鋭い批判を含む疑問文になっている、と言えるでしょう。ですからこの36節は、うまく(C)の「異言と預言」についての段落に接続することになります。ということは、なお一層、その前の(A)の34~35節が、やはり文脈を中断する「別人」の文章である、ということが指示されているということでしょう。

 背景にいかなる理由があったとしても、私には、パウロが(A)の34~35節のような言い方をなすようには思えないのですが、万が一、上で述べてきたことがすべて妥当せず、したがって(A)の部分はやはりパウロの真正な言葉だ、ということになれば、そこにはそれなりの背景があったにちがいないと、ということになるでしょう。
 例えば、『パウロとコリントの女性預言者たち』(絹川久子訳、日本キリスト教団出版局、2001年)を著したAntoinette Clark Wire (A・C・ワイヤ)さんは、コリントの女性預言者たちはパウロと対立していた、と想定しています。そしてパウロの「十字架の神学」ではなくて、「すでに」ということを強調していた、いわゆる「霊的な熱狂主義者たち」だったのだ、と解釈しています。第一コリント4章8節でパウロは、皮肉を込めて次のように言っていますが、それは彼女たちの生きざまを象徴的に描いているのだ、と解釈されます。「あなたがたはすでに満足し、すでに大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています。いや実際、王様になっていてくれたらと思います。そうしたら、わたしたちも、あなたがたと一緒に王様になれたはずですから。」「金持ち」「王様」というのは、彼女たちの、直接的な「預言力」や「霊力」を誇った姿勢の比喩的な表現でしょう。つまり、彼女たちの基本的な姿勢は、パウロの言う、「弱さ」において逆説的に明らかになる「力」をこそ強調する「十字架の神学」を評価せず、むしろ「直接的な力、栄光」を強調した、というのです。そしてワイヤさんはそれらの女性預言者のあり方を評価して、これまで否定的にしか評価されてこなかった「霊的熱狂主義者たち」の復権を図ろうとします。
 そうだとすれば、(A)のパウロの、彼女たちに「沈黙命令」を出す「ひどい」発言は、さもありなん、と理解できることになるでしょうか。私には、そもそもそのような「女性預言者たち」の思想の再構成が可能かどうか、とても疑問に思えますし、その(A)の発言の「ひどさ」は、たとえそのような状況が背景にあったとしても、度を過ぎたものだと思われます。その「ひどさ」は、状況いかんに関わらず、そしてその発言者が誰であるかに関わらず、やはり厳しく批判されなくてはならないものだと思われます。たとえそれが聖書の中に書かれた文言であったとしても、そしてたとえそれがパウロの真正な発言であったとしても。
 むしろ私たちは、招詞で読んでいただいた第一コリント12章21~22節のことばにこそ、しっかりと耳を傾けるべきではないでしょうか。岩波訳でもう一度読みます。「目は手に対して、『私はあなたを必要としない』と言うことはできないし、あるいは他方で、頭は足に対して、『私はあなたがたを必要としない』と言うことはできない。およそそうではなくて、むしろ、からだのうちでより弱いと思われる肢体の存在することが、かけがえのないことなのである。」
 パウロのこの言葉が、パウロ自身の手紙のなかで貫徹されていくことを、切に祈りたいと思います。


青野太潮 協力牧師

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