平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2020年3月15日 イエス様につながり、その愛に止まる

2020-05-01 22:21:22 | 2020年
ヨハネによる福音書15章1節〜17節
イエス様につながり、その愛に止まる

 イエス様は、まことのぶどうの木です。わたしたちは、その枝です。神様は、ぶどうの木を手入れする農夫です。イエス様につながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれます。教会にもぶどうの木があります。鉢に植わっていて、毎年、実をつけます。しかし、すべての枝がそうだというのではありません。枝の中には、幹につながっていても、既に枯れたようになっている枝があり、その枝には葉もつきませんし、実もなりません。これは、イエス様と弟子たち、わたしたちとの関係でいうと、どういうことになるのでしょうか。
 イエス様と形なりともつながっているけれども、幹であるイエス様から養分が流れてこない、イエス様から、養分をもらおうとしていない、それで、枯れてしまっている、もう生きている状態にはなっていない、そういうことでしょう。あるいは、そのぶどうの木は、まことのぶどうの木ではないかもしれません。それなら、いくらつながっていてもぶどうの実をつけることはありません。
 あるいは、まことのぶどうの木であるイエス様とつながってはいるけれども、実をつけないというのは、それは、イエス様の言葉をまもり、その言葉に従って生きようとしていない人、罪赦された者でありながら感謝の気持ちを持ち得ないで生きている、悔い改めた者でありながら、相変わらず、罪の中にどっぷりつかって生きている、イエス様のことをすっかり忘れて生きている、そのような人のことでしょうか。
 そして、このような人は、取り除かれるとは、厳しい裁きが臨むことが告げられていると言えます。6節の「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」とあります。形だけはイエス様につながってはいるものの、既に枯れてしまっていて、実を結ばない枝は、イエス様につながっていないも同然ということです。それだけではありません。いずれ、火に投げ入れられてしまうのです。
 それとは逆に、農夫である神様は「実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」というのです。実をつける枝は、しっかりとイエス様とつながっているから、そのような人に対しては、もっと、もっと実を実らせるようにさらに、神様は、その人を手厚くお世話してくださるのです。肥料をさらに加えたり、虫がつかないように消毒してあげたり、曲がったり、折れたりしているようなところを剪定して整えたりしてくれるというのです。
 ここらの聖書の箇所は、前にも申しましたように、イエス様の告別説教になっているととらえることができます。これから、イエス様が十字架におつきになられ、そのあと、弟子たちは不安のなかに陥ることになるでしょう。なかには、自分たちが今度は捕えられ、迫害されるのではないかとの恐れから、イエス様からすっかり心が離れていく者たちも出てくるかもしれないのです。教えられたことを捨てる者や、イエス様に失望する者たちが出てくることが予想されるのです。そうした彼らに、イエス様は、いつまでも自分とつながっているようにと、必死になって愛情あふれんばかりに、熱く語っておられるのです。
 私たちも自分の人生のなかで、イエス様から離れていってしまうことがあるでしょう。色々な誘惑に負けてしまうときもあります。苦しさに打ちのめされてしまってイエス様を見失うこともあるでしょう。でもどのようなときにも、イエス様から離れることがあってはならないのです。あの病を抱えていた女性が、病を癒してもらおうと、イエス様の衣のすそをつかんで、放さなかったように、どのようなことがあろうともしっかりと握っていなければなりません。
 「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」。イエス様につながるということは、イエス様とわたしたちと、双方の思いがあって成り立つことなのだということになります。一人が手首を持ち、もう一方も相手の手首をもつのです。そうして、二人が、固く互いの手首をつかんで放さないのです。そういう姿が理想です。
 しかし、どちらかというと、わたしたちのイエス様につながろうとする思いがより大事なのではないのか、なんとなくそのように思わされます。イエス様は、いつも私たちの手を握っているのですが、私たちがそのイエス様の手を振りほどいて、離れていってしまうのです。ぶどうの枝は、幹であるイエス様からの養分をいただいて、生きた枝となり、その先にぶどうの実を実らせます。「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」。
 イエス様から離れては、そのとおり、私たちには何もできません。私たちは、イエス様から愛をいただき、イエス様から赦され、励ましをいただき、イエス様から支えられ、イエス様から押し出されて、ようやく日々の生活を送ることができます。否、これこれのことができたのは、自分の能力や持ち物の力だと思っている方もおられますが、それらのものでさえ、神様によっていただいたものであります。イエス様とつながっていないならば、私たちには何もできないのです。
 「わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる」。イエス様のお言葉が私たちの内にあるというのは、イエス様の言葉に従って生きている私たちの日々の生活を言っているのでしょう。そのようななかで、なされる私たちの祈りをイエス様は何でも聞いてくださるというのです。そして、願ってかなえられるものは確かに人生の実りなのであって、その結果を見て、私たちはその栄光を神様に帰するのです。
 私たちは、イエス様の御言葉を実践してみることが求められています。明日のことを思いわずらうなと言われたら、えいやっと、すべての心配ごとを神様にお任せして、できるかどうかわからいけれども、まずは、試したらいいのです。自分の手にすべてのことを握りしめることをしないで、手放したらいいのです。もう私にはできません、神様、誰か助け手を私によこしてください、お願いですから、早く寄越してください、そう祈ればいいのです。
 「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」。イエス様とつながることは、イエス様の愛にとどまることでもあります。ヨハネの黙示録の2章4節、5節には「しかし、あなたがたに言うべきことがある。あなたは初めの頃の愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたのかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ」。
 いつの時代も、イエス様の愛から私たちを引き離す力と格闘することが必要となります。この黙示録の言葉にも、具体的な社会的な背景がありました。それは、当時のローマ帝国による迫害によって、キリスト者たちは危険にさらされておりました。その中で、イエス様から離れていってしまう者たちや信仰を捨てる者たちも出てきていたのでしょう。イエス様があれほど彼らを愛されたというのに、その愛から離れてしまう者たちがいたのです。そのような者たちへの戒めの言葉です。
 10節に「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」とありますが、それでは「わたしの掟」というのは、何かと言えば、12節に「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」とありますから、例えば、迫害が教会に迫ったときに、ある者はその迫害に耐えようとするけれど、ある者は、迫害から逃れるためにキリスト者であることを捨てる、そういうことがあったのかもしれません。それで、互いに愛し合うということができなくなったのです。同時に、それは今の時代を生きる私たちへの奨めでもあります。
 私たちは、いつも、救われたあの時のことを思い起こすべきではありませんか。そして、信仰がなえてしまっているのなら、何ゆえなのか、自分を振り返ることが求められます。それから、悔い改めて、イエス様が、この自分を愛してくださっているといった思い、共に歩んでくださっているといった思いを、再び取り戻すことです。
 イエス様は、ここで一つの大切な戒めを与えておられます。それは、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」ということでした。そしてさらに、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言われました。まさに、イエス様が私たちのためにそのようにされた、そのことを思い起こさせる言葉です。イエス様は、「わたしの命じることを行うならば、あなたがたは私の友である」と言われておりますから、友のために命を捨てるほどの愛を持てと、教えられているのだろうと理解します。
 ただし、あのサマリア人のたとえ話でもわかりますように、隣人というのは、最初からどこそこにいるというのではなく、あなたが愛のある行為をその人にした時点で、その人はあなたの隣人になるのであるということだ考えるならば、私たちには、かかわりをもとうとするその人がすでにあなたの隣人、友になっているということでしょう。その人もまた、あなたを友と呼ぶはずです。イエス様は私たちを友と呼ぶと言ってくださっておられます。
 それから、あなたがたが私の友だという、もう一つの理由は、イエス様の掟を守ろうとしているからだということの他に、イエス様が、自分のなそうとしていることをあなたがたに教えたということ、あなたがたが僕であったならそういうことはしなかった、あなたがたが友であるからそうした、また、父なる神様から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたということにある、と言われました。私たちもまた、聖霊のお力によって、聖書の解き明かしを色々な形で聞いて、神様の御心を知るに至っております。そのことをもって、イエス様は、私たちを友と呼んでおられるのだと思います。
 16節の言葉は、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ」。これは、イエス様の選びが弟子たちの上にあったことを表わしています。そして、わたしたちもまた、この選びに与ったのです。19節にも「あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した」とあります。弟子たちは選ばれた者たちでありました。世から選び出された者たちでした。同じく、私たちもまた、選ばれた者たちであります。世から選び出された者たちです。しかし、このことを私たちは、自分に何かがあってのことだと思わないことです。
 神様の一方的な恵みによって、このような扱いを受けることになったのです。ですけれども、それはくじ引きか何かで選ばれたのではないでしょう。繰り返しますが、恵みによるものだということ以上のものではないのです。でも、この選ばれたという意識は、とても重要でありまして、これは、他人に自慢するようなことではありませんが、己の意識のなかにもつべきものであると、私は考えます。自分が何かのことで弱ったときなどは、この意識に立ち帰って、元気と励ましをもらってよいものであると思っています。私は、主によって選ばれた者である、主によって、この世から選び出された者である、という意識です。そして、この思いは、キリスト者としてなすべきことへと、わたしたちを突き動かすことでしょう。
 さて、16節の後半ですが、その選びの理由が書かれています。「あなたがたが出かけて行って、実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」。実を結ぶ、その条件は、まずは、イエス様とつながって、ということですが、次には、出かけて行って、というところにあります。出かけもしない、つまり、何もしないで、じっとしていて実を結ぶことはできません。でかけて行って、なのです。
 ここにはチャレンジする姿が求められています。でかけていくというのは、今、守られている場から、或いは、安定した場所から出ていくことです。リスクを伴う事柄です。あのアブラハムが、75歳で住み慣れた場所を後にして、神様の示す場所にでかけて行ったようなものです。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」。しかし、その神様の目的は、「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように」(創世記12:1-2)と、いうものでした。つまり、ここでは、こうやって神様の示す土地に行くことは祝福の源となることにつながるのです。それは、実を結ぶという内容になるのでしょう。そのように、「出かけて行って」というチャレンジする行為によって、それが、祝福へとつながっていくのです。
 私たちは、イエス様といつまでもつながっていることに致しましょう。私たちが、手を離さない限り、イエス様から手を放されることはありません。私たちを友と呼んでくださり、私たちの救いのために果たしてくださったその御業、そこで示されたイエス様の愛にいつまでもとどまっていることに致しましょう。
 今日は3.11をおぼえる礼拝です。抗うことのできない大きな自然災害と原発の事故によって大勢の人々が、人生半ばにして、この世での命を断たれました。あるいは、家族を失い、夢を絶たれ、失意のなかに落とされました。イエス様は最後まで彼らとつながっていてくださったのでしょうか、彼らは豊かなぶどうの実を結んだと言えるのでしょうか、彼らもまた、イエス様の選びのなかにいたのでしょうか、イエス様は、ほんとうに彼らの友だったのでしょうか、そして、彼らの神様への願いは、叶えられたのでしょうか。それは、現在、コロナウイルスによって、命を失った人々なども含めてでありますが。
 それでもなお、私たちは、次の言葉を信じ、この言葉のなかにすべての人々が、これまでも抱きかかえられてきたし、今も抱きかかえられているし、これからも抱きかかえられていくことを信じるしかありません。
 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」。


平良憲誠 主任牧師

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