平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2020年5月24日 Happy Prince 〜ふたつの「しあわせ」〜

2020-06-18 21:19:12 | 2020年
ローマの信徒への手紙5章3節〜4節
Happy Prince 〜ふたつの「しあわせ」〜

 オンライン礼拝となり初めてお目にかかる方もおられるかと存じます。平尾バプテスト教会教会学校の長を務めます松崎と申します。4月からオンライン礼拝となり,教会学校は休止が続いています。1日でも早く再開し,みなさんとともに聖書の学びを深める日々がまた戻ってくることを祈り願いながら,今日与えられた聖書のみことばにともに聴き,ともに学ぶひとときとなればと思います。よろしくお願いいたします。

神様は天使に告げました。「あの町で最も貴(とうと)いものを持ってきなさい。」
天使は王子のなまりの心臓と冷たくなったツバメを見つけ,「これこそ最も貴いものです」と神さまのところへ運んできました。
神さまは天使に答えました。「あなたは正しいものを選んだ。」と。

 金箔(きんぱく)の体とサファイアの目,ルビーを持つ王子の像が,冬を越すために南の島へ向かっていたツバメの力を借りて,貧しい人々に自分の金箔や宝石を分け与えていく,その結果として王子とツバメは自分が持っていたすべてのもの,命までも失ってしまう…アイルランドの作家オスカーワイルドが遺(のこ)した有名な物語「Happy Prince …日本語では幸せの王子」はそんなお話で,先ほど私が話したのはその物語の最後の部分です。
 この物語でオスカーワイルドが伝えようとしたのは「しあわせにはふたつ,2種類あるということ」だと私は考えています。ある絵本のあとがきから言葉を借りるとしあわせの1つは「楽しいことや,嬉しいことがあり,お金やほしいものが自分の手元にあり満たされている」という意味でのいわば一般的な意味でのしあわせ,そしてもう1つは「貧しい人や苦しんでいる人を救う愛」の持つしあわせ,です。この説教のタイトル,副題の「しあわせ」をひらがなで書いているのは,私の中でこの2種類の「しあわせ」を違う漢字で書き分けているからです。前者…一般的な意味でのしあわせは幸福,幸運の「幸」と書く,いわゆる「普通の」幸せ。そして後者…「貧しい人や苦しんでいる人を救う愛」の方を私は「仕事の仕」に「合わせる」と書いて「仕合わせ」とこのように書き分けています。

 後者の「仕合わせ」…「仕事の仕」は訓読みで「仕(つか)える」と読みますので,私は「仕え合う『仕合わせ』」という言い方もするのですが,あまり使わない言葉だと思われる方もいるでしょう。辞書で調べると通常の「幸せ」よりも,偶発性を強調したいときに「仕え合う方の仕合わせ」を使うのだそうですが,比較的身近に使われている例としては,中島みゆきさんの作詞・作曲された「糸」という歌,その歌詞の中に出てきます。このような歌です。

♪縦の糸はあなた 横の糸は私 逢うべき糸に 出逢えることを 人は 仕合わせと呼びます。♪

 聖書にも多く出てくる仕えるということばは「自分が下に来る」ことを意味しますが,「下に来る」というのは苦しいことであり,その苦しさ,苦しみながらの働きに光があてられる,認められ讃(たた)えられることは決して多くありません。「Happy Prince」の物語の中でも,文字通り人に仕え続けてその命を終えた王子とツバメを天使が見つけてきたのはゴミの中,まさに捨てられていた中からでした。仕えるだけであれば,そこには「しあわせ」と呼べるような喜びや希望は見いだせないかもしれません。けれども,仕え「合う」…どちらかが一方的に仕えるのではなく,ともに仕えることによって,その苦しさが喜び,希望,「仕合わせ」へと変わっていくのでしょう。そして聖書の中では徹底的に私たちひとりひとりに仕え,いつも仕え合う神さまの姿,イエスキリストの姿が描かれていて,そのことが日々私たちに語りかけられていると思うのです。
 今日示された聖書のみことば,ローマの信徒への手紙5章3節~4節…特に4節にあります「苦難は忍耐を,忍耐は練達を,練達は希望を生む」…私が最も好きな聖句のひとつであり,いわゆる「わかりやすい聖句」のひとつと言ってもよいかもしれません。「苦しいことを努力して,我慢して乗り越えていく。それによって成長していき,喜びが得られる。」という普遍的な道徳と言いましょうか,そのような意味もおそらく含まれてはいると思います。けれども,一方でそれ「だけ」ではないはずだとも思います。苦しいこと,苦難を乗り越えていく…そのための忍耐であるとか,努力であるとか…そこに求められているのは強さであると言えるでしょう。しかし私は聖書の中で語られている大きなテーマの1つが,私たち人間の本質的な弱さであると考えています。聖書が弱い私たちに示す苦難,忍耐,希望…について,少し視点を変えて考えていきたいと思います。
 今日与えられた聖句について考えていくときに,「Happy Prince」の物語の途中に出てくる,次のことばに触れておきたいと思います。

宮殿(きゅうでん)では今日もはなやかな舞踏会(ぶとうかい)が開かれています。
楽しそうな音楽が遠くかすかに聞こえてきます。
何年か前までは王子もその舞踏会で踊っていました。
そのころは悲しみの涙を流すことも知りませんでした。
けれども今,王子は貧しい人たちのために泣いているのです。

 そもそも苦難って何でしょう?自分の努力で,弱い人間ひとりの力で乗り越えられる…聖書の中で語られている苦難というのはそのようなものではないのかもしれません。自分の力で乗り越えることができない…そんな苦しみを自分で抱(かか)えるしかない,誰とも分かち合えない…そして他の誰か,それが自分にとってたいせつな存在であればあるほど,その苦しみをも分かち合うことができない…それこそが聖書の中で語られている苦難であるかもしれません。物語の中で「悲しみの涙を流すことも知りませんでした」とありますが…もし,知らないままであれば,それは一般的な意味で「幸せ」であったかもしれません。けれども,悲しみの涙を知ってしまった,自分が分かち合うことができない苦難,この場合は貧しさ,貧困と言えるでしょう,その存在を知ってしまった…王子にとってこの事実,現実が「自分で抱えるしかない苦難」になったと言えるのではないでしょうか。
 2011年3月11日…もう気がつけば9年も経ちましたが,東日本大震災が起きました。ちょうどその時期に,福岡有田バプテスト教会から仙台北バプテスト教会(今は仙台長命ヶ丘(ちょうめいがおか)バプテスト教会に名前が変わりましたが)の牧師として転任された金丸(かなまる)真(まこと)牧師,彼は転任された当初から精力的に被災地の支援活動を,今なお変わらず継続されているのですが,仙台に転任して1年ほど後に福岡に来られて,被災地支援の報告をされる中でこのように語られました。「被災地のことも覚えてお祈りしてほしいのですが,遠く東北まで支援に来てくださっているボランティアの方々のこと,そして東北に思いを寄せながら来ることができず,それぞれの地で悲しみ苦しんでおられるみなさん一人一人,ご自身のためにも祈られてください」と。この当時,まさに「それぞれの地で悲しみ苦しんでいる一人」であった私にとって,「私が感じているこの苦しみは何なのだろう?」という想いがありました。「ご自身のためにも祈られて」と言われたときにその理由が,「苦しみの正体」とでもいうべきものが分かったように感じました。そして,あらためて思ったのです,「聖書の中で語られている『苦難』というのはこのようなものではないか」と。

 この報告を受けた直後の2012年6月のある日,私がこの平尾教会での子ども説教の奉仕を,何らかの理由で急遽担うことになり,急遽だったのもあり,「ほんとうの希望」と題して,今日の聖書箇所,ローマの信徒への手紙5章3~4節に基づいて,先程の金丸牧師のことばから感じたことを子どもたちに話をさせていただきました。当時の原稿からかいつまんで紹介しますと,金丸牧師が「大きな地震でもちろん東北の人たちもすごく傷ついたけど,東京も福岡も日本のみんなが傷ついて,みんなが被災者だと思います。福岡の人たちも“東北のみんながもっとつらいから”ってがまんしないで,福岡の教会は同じように傷ついた福岡のために祈ってください」とおっしゃったのだと言いました。そして「苦難,苦しいことは自分だけで,ひとりでかかえているうちはずっと苦しいまま,つらいままの苦難なのかな」と私が考えていることを語り,最後にこのようなことばを述べました。

 つらいことや苦しいことはこれからもきっとあると思います。けれども神様がいつもみんなといっしょにいてそんなつらいことや苦しいことを分かち合って下さいます。そしてこの教会でいっしょに礼拝を守っている大人のみなさんも,日本中の,いや世界中の教会のみなさんもきっとみんなのつらいことや苦しいことをおぼえてお祈りすることで,神様といっしょにみんなの苦難を分かち合って下さいます。練達,希望…ほんとうに嬉しいこと,ほんとうにすてきなことはつらいことや苦しいことがなくなるということではなく,そういうことをみんなで分かち合えること,その真ん中に神様がいるということだと私は信じています。

 「Happy Prince」の物語の中で,王子は「知らずにいた貧しさを,貧しい人の存在を知ってしまう苦しみ」を,そして「貧しさから救う『富』を持っていながら,自分ではそれを分け与えられない苦しみ」を抱えていました。そこに王子の「富」を分け与える翼をもつツバメが訪れました。ツバメは王子の苦難を分かち合い,そして王子とツバメはまさにそれぞれ「命を懸けて仕え合い」ました。その「仕え合い」の結果,王子もツバメも命を含めたすべてを失いゴミの中に捨てられた…一般的な「幸せ」からは程遠い,むしろ「不幸」としか言いようがないのかもしれません。けれども,「仕え合う」姿を神さまは決して見落とさず,「あの町で最も貴いもの」として選び取られました。「あの町で」ということばから,地の底ともいうべき王子とツバメがいるゴミ捨て場から遥かに遠く,高い場所から見下ろす神さまの姿がイメージされるかもしれません。けれども,私はそうではない,ものすごく高い遠い場所ではなく,「仕える苦しみ」の中に,今まさに,ともに神さまはいて語りかけているように思うのです。そこにこそ「仕え合う」という意味で「仕合わせ」があり,聖書の中で語られている意味での希望が満ちているのではないでしょうか。
 さて,コロナウィルスの影響で外出自粛となり,通常の形で教会の礼拝を守ることができない…その状況が2か月続いています。そのような中で私が思い出したのがアンパンマンの作者として知られるやなせたかしさんが遺した「絶望のとなりに」という詩でした。このような詩です。

絶望のとなりに だれかがそっと腰かけた 絶望は となりのひとに聞いた
「あなたはいったい誰ですか」 となりの人はほほえんだ 「私の名前は希望です」

 今の状況もひとつの苦難と言えるでしょう。また,東日本や熊本の大震災,台風や大雨などの自然災害のときは,「人のつながりで乗り越えていこう」と世の中が動くように,そしてそのつながりに希望が見出されるように思いますが,今回は感染を防ぐという意味で,むしろ「人のつながり」が忌避されています。もちろんその判断自体は致し方ないのでしょうが,「人のつながり」というのに「希望」を見出すのであれば,その「希望」が絶たれるという意味では「絶望」がそこにあると感じられるかもしれません。そのような中で平尾バプテスト教会をはじめとする少なくない教会は「通常の形の礼拝は中止」しても「礼拝を中止」はせず,家庭礼拝や動画配信などの「形を変えた礼拝」を守っています。礼拝が,神の家族たる教会のつながりが守られ続けているという事実,その教会,関わる方々の姿にもまた「仕え合う」姿があると思いますし,絶望のとなりに近づいてきた希望を感じています。一方でネット環境のない方にとっては,礼拝をともに守ることはできず,つながりが絶たれているように感じられるかも知れません。そうした方のことをあらためて覚えて祈りたいと思います。

 聖書の中で語られる「苦難」というのは,私たちが考えるよりも,重いものであるかもしれません。その苦難を分かち合うことが「仕え合う」ことであるとするならば,決してたやすいことではなく,すぐにはっきりと希望が示されるというわけでもないのでしょう。けれども,私たちがこうして礼拝を守り,聖書の言葉に触れていく中で,「仕え合う」ことの喜び,その苦しみの中にも主イエスがともにいてくださる希望を知り,それを証しする者として,それぞれの場に遣わされることを願い祈っています。主によって導かれ,そのように歩んでいく中で,いつもともにいてくださる神さまが語りかけてくださる日がくるのかもしれません,「あなたは正しいものを選んだ」のだと。
ともに祈りをささげましょう。お祈りいたします。


M R 兄

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