ルカによる福音書2章8〜20節
天使は言った。恐れるな。
(キャンドルサーヴィス)
この一年は、皆様にとっても、いろいろなことがあった一年だったのではないでしょうか。ご自身の仕事、家族との関係、健康の問題などもおありだったでしょう。日本の社会でも、世界でも、いろいろな出来事がありました。テロも相変わらずありました。悲惨極まりない事件でした。それによって世界が、戦々恐々となりました。アメリカの大統 . . . 本文を読む
占星術の学者たちが、東の方からやってきてベツレヘムでお生まれになったイエス様を拝んだというお話は、クリスマスにはなくてならない風景の一つになっています。岩波訳の脚注には、この学者たちは「賢者兼祭司で、占星術や占いなどをよくしていた人々」とあります。彼らは、東方から来た異邦人でした。その彼らが、ユダ人の王として生まれた方の星を見て、拝みにエルサレムまでへやってきたのです。彼らがはじめにエルサレムに来たのは、ユダヤ人の王となるべき人ですから、当然、それは都のエルサレムでお生まれになっていると考えたのでしょう。こういう異邦人たちがやってきて、エルサレムをうろうろしているといううわさは、ヘロデの耳にも入りました。彼は、ユダヤ人の王が生まれたという知らせを聞いて不安を抱きました。それは、エルサレムの人々も同様であったと記されています。なぜ、学者たちの話を喜ぶことをせず、逆に不安に思ったのでしょうか。それは、彼らの現在の立場や権益や日常の生活をこの方の存在が脅かすのではないかと咄嗟に感じたからでした。イエス様がこの世に来られたことを、素直に喜べる者とそうでない者がいることを知らされます。今、悲しみ苦しんでいる者たちには、この方が来られたのは「待っていました」となり、逆に、やりたい放題で満ち足りた生活をおくっている者たちには、「困るんだよ」となるのでしょうか。そして、理解に苦しむのは、祭司長や律法学者たちがヘロデ王にベツレヘムでメシアは生まれることになっていると教えながら、自分たちはでかけて行こうとはしなかったことです。しかし、東方の学者たちは、ただ拝みたいとの一心でやってきました。導いた星が幼子のいる場所の上に止まったのを非常に喜び、幼子イエス様に出会ってひれ伏したのでした。彼らは、商売道具とも言える品々を献げました。それは、彼らがこれからはこのお方に従って生きることを表しておりました。 . . . 本文を読む
ヨセフが、救い主誕生に際して受けた知らせは、非常につらいものでした。いいなずけのマリアが聖霊によって身ごもっており、男の子が生まれるけれど、この子は救い主であるとのことでした。ヨセフは、何かのことでマリアがすでに子を宿していることを知りました。それで、彼は正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心したのでした。正しい人とは、律法に従って生活を送っていた人のことです。彼は、マリアが姦淫の罪を犯したとして、表ざたにする道もありましたが、マリアのことを思いやりました。離縁状を渡してひそかに縁を切る道を選んだようです。しかし、実際に、その道を選んだとしてもいずれは父親のない子を産んだとして、姦淫の汚名はぬぐいきれず、マリアは苦境に立たされることになったでしょう。ですから、マリアが生きる道は、ヨセフが妻として受け入れる他はありませんでした。ヨセフは、マリアが子を宿していると知ったとき、大きな失望と人間不信に陥ったはずです。しかし、彼は天使から「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と聞いても、すぐにすべてを受け入れることは不可能だったでしょう。葛藤もあったはずです。しかし、この夢で聞いた天使の御告げの内容を最終的には信じ、天使が命じたとおりマリアを妻として迎え入れます。彼がもし、自分の正しさにこだわり続けたのなら、どうなっていたでしょう。彼は、「恐れず妻マリアを受け入れなさい」という、天使の御告げに従いました。自分の心を断念して、神様の御心を受け入れたのでした。そのとき、ヨセフの苦悩は解放されました。マリアとの絆もつながったのです。神様の本質はインマヌエルです。その意味は「神は我々と共におられる」。 . . . 本文を読む
ダニエル書12章1~13節
終わりまで歩み続ける
ダニエル書の最後の12章13節は「終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう」と書かれています。それが、岩波訳では、こうなっています。「あなたは終わりまで歩み続けよ。それから憩う(死ぬ)のだ。終わりの日には甦ってあなたの分け前をいただけよう」。
ダニエル書は、バビロ . . . 本文を読む
ダニエル書3章13〜30節
どこまでも共におられる神
今日は、こども祝福式を礼拝のなかで致しました。こどもたちを取り巻くこの時代は、否、こどもたちが育っていくこれからの時代は、ますます生きにくい、希望がなかなかもてない時代になるかもしれません。既に世界のあちこちの国が、困った様相を呈してきています。権力の腐敗、おごりがもたらしているものもあります。このたびの米大統領の選挙について思わされたことは . . . 本文を読む
ダニエル書1章1〜21節
自分を汚すまいと決心する
ダニエル書もまた黙示文学です。そして、ダニエルがおかれていた場所も捕囚として連れてこられたバビロンの地でした。捕囚としての身の上ですから、あからさまにバビロンについてあれこれ言うことはできませんでしたから、黙示文学という形式で言わんとしていることを表現しています。ダニエルは、ヨヤキン王の時代に、バビロンの王ネブカドネツァルが攻めて来て、捕囚とし . . . 本文を読む
エゼキエル書43章1〜9節
主の栄光が満ちるところ
ここでの神様の栄光とは、目に見える形としては、眩いばかりの光だと考えてよいかと思います。もちろん、それは、単に目に見えるイメージだけではなく、その内容を指している場合もあります。神様の輝かしいほまれをいう場合です。ここでは、実際に目に見えるようすを言っております。その栄光、眩いばかりの光に大地は包まれました。
「大地はその栄光で輝いた」とあり . . . 本文を読む
エゼキエル書37章1〜14節
枯れた骨に主が霊を吹き込むと
エゼキエルは、神様の霊に導かれ、ある谷の真ん中に立たされます。これもまた、神様が、エゼキエルに何かを伝えるために見せた幻です。そこには、多くの骨が散乱していました。あとでわかりますように、この骨は人間の骨でした。それも「殺されたもの」という言葉が9節にでてまいりますので、イスラエルの兵士たちの骨だろうと思いますが、一般の人々の骨も含まれ . . . 本文を読む
エゼキエル書33章1〜11節
立ち帰って、生きよ
これまで預言者エゼキエルは、都エルサレムから捕囚となってバビロンに来ている南ユダの人々に、悔い改めを迫る神様の言葉を伝えてきました。捕囚となった人々は、どうして、自分たちの国が、このようなつらい目に遭わねばならないのだろうか、自分たちのヤーウェの神様は、どうなってしまったのだろうか。私たちは見捨てられてしまったのだろうか。あちこちにあるバビロンの . . . 本文を読む
エゼキエル書1章1〜21節
主の御手が彼の上に臨んだ
第三十年というのは、いったい何からの三十年なのか不明ですが、一説では、ヨヤキンの年齢を指しているのではないかということです。それからエゼキエルの年齢ではないかという説もあります。というのも、祭司になれる年齢が30歳からなので、そうであったのではないかということです。このときは、祭司ではなく、預言者としての召命であったわけですが。
また、それ . . . 本文を読む