平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2020年3月1日 まず主から受ける

2020-05-01 17:17:07 | 2020年
ヨハネによる福音書13章12節〜20節
まず主から受ける

 イエス様が私たちを愛しているという実感は、どうやったら味わうことができるのでしょうか。何回か、そのことを説教のなかでお聞きしたことがあります。それは、文字通り、今幸せを感じられるような状況に人はあるときに、神様に愛されていることを感じることがあるでしょう。あるいは、何か奇跡的幸運な出来事に遭遇したときに、感じることがあります。
 礼拝の中で感じることも、もちろんあります。パウロのように、苦難の最中にあって、そのことを思うことのできる信仰者もおります。後になって、じわじわとその愛に気づくこともあります。実感とまではいかなくても、イエス様、神様が、私たちを愛しているということは、その多くは、聖書からも教えられます。実感ということでいうと、やはり私たちの日常に起こる出来事を通してということになるのでしょう。それでも、今日の聖書は、イエス様が私たちに注がれている愛を実感させるに十分こと足れりといった気持ちになる箇所と言えないでしょうか。
 イエス様はご自身の十字架が迫っていることを悟られたとき、弟子たちの足を洗われました。これは、弟子たちには、当初、とまどいであったことでしょう。どうして、このようなことをするのだろう、と。しかし、この出来事は同時に何となく、弟子たちへのイエス様の深い愛を感じさせるものだったはずです。
 それについては、ヨハネによる福音書13章1節に「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」とあるとおりでありまして、この洗足の行為にはこの上なく弟子たちを愛し抜かれたお姿が表されておりました。
 2節には、「既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた」とありますから、イエス様が捕えられる時は、一刻一刻と近づいておりました。これについては、ユダが、何か恐ろしく悪人だったとかじゃなく、悪魔による仕業であったとヨハネは語っているのです。キリスト者がイエス様を裏切るような行為に及ぶとき、そこには罪に誘う悪魔の働き、入り込む余地がその人にあったということでしょうか。
 そして、3節では、「イエスは、父がすべてをご自分の手に委ねられたこと、また、ご自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り」とありまして、イエス様は、これから自分の身に起こること、また、自分が何をなすべきかを知っておられたというのです。それで、イエス様は、このとき、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとい、それからたらいに水をくんで弟子たちの足を洗いはじめました。そして、腰にまとった手ぬぐいで、彼らの足をふき始められたのでした。
 ところが、イエス様の足を洗う行為が、ペトロの番になったときに、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言ったのでした。ペトロには、どうして、イエス様が自分の足を洗うなどということをするのか、理解できませんでした。それは、当時は、主人の足を洗うというのは、奴隷のする仕事だったからです。このイエス様の行為は他の弟子たちも同じように、理解できなかったに違いありません。
 ペトロの心のなかを見ぬいてイエス様は、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われました。後というのは、イエス様が十字架におつきになったとき、或いは、復活を遂げられたとき、また、それから天に上げられたとき、いずれにしても、十字架以降のことであって、いろいろと生前のイエス様のことを思い起こし、その十字架の意味をこの洗足の行為と重ねあわせて考えることができるようになったときでした。もちろん、そのことを理解させるために、聖霊の働きあったことを使徒言行録などの記事から知らされてはいます。しかし、ペトロは、まだこのときには納得できません。それで、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言いました。イエス様は、「もしわたしがあなたを洗わないのなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と言われたのです。
 ここには、イエス様が私たちにしてくださったことに対するこちら側の受容の姿勢、その必要性が語られています。まず、イエス様が弟子たちにしようとしていることを受けよということです。このときのイエス様の、ペトロの足を洗うという行為を受け入れるのでなければ、自分とあなたペトロとの関係は、何もないことになると言われたのでした。人と人との関係は、どうやって作られていくのか、それはいろいろなケースがあることでしょう。一つには、その人との間に、よく会話を交わして、その人となりを理解する、その方がどういう考えを持っているかを理解する、そこで見えてきた違いをどうやって埋めるかを、関係を保とうと思えば努力します。
 人には誤解というものがありますから、私はとことん対話を続けたいと思います。あるいは、共に生きる関係、助ける、助けられるという関係を築こうとします。そのときには、何かをしてもらうとか、何かをしてさしあげるとか、そのような関係性のなかに、かかわりをもつということが生まれます。これが共に生きることになります。
 イエス様が、ここでも弟子たちに教えられていることです。残念なことですが、世の中は、この人とはあまり深い関係をもちたくないということになると、挨拶すらも交わしません。相手が何か話しかけても無視するとか、そういうことをする方もおられます。
 大きな誤解があって事がもつれている場合も多いですから、そのときは、それこそ実に残念です。また、何もしてもらわないし、相手にもこちらから何らすることもない、そういう関係です。これはとても冷たい、悲しい関係です。キリスト者である私たちは、このような冷たい関係性をこちらから作ってはならない、と教えられているはずです。イエス様は、このとき、自分がしようとしているこの洗足の行為を受け入れなさいと、弟子たちに言われたのです。
 イエス様が、弟子たちの足を洗うという行為は、イエス様が彼らを愛しているという一つの象徴的な出来事でした。ここには、イエス様が、弟子たちに仕えるという愛の姿勢が現れていました。そしてまた、このイエス様が弟子たちの足を洗われたという背景の一つとしては、弟子たちが、ルカの22章の24節からのところにありますように、弟子たちのなかで、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうかという議論があったということも考えられます。人間の社会では、自ずとこうした考えが頭をもたげてくるものです。そして、信頼に満ちた関係を壊していくことになります。
 イエス様の意図は、「わたしがあなたがたにしたことがわかるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わねばならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」。
 互いに足を洗い合う、互いに汚い部分を洗い合う、互いに仕え合う姿勢です。これは、愛ある行為です。その人の汚い部分には触れたくないのが心情ですが、弟子たちは、そうであってはいけない、汚い部分こそ互いに清め合う姿勢が必要であるということなのでしょうか。それは、汚いから拒否するというのではなく、その人を赦し、受け入れる行為でもあるでしょう。あるいは、足りないところを補い合う行為でもあります。
 先生であり、主であるイエス様が、弟子たちの前にひざまずき、それは仕える姿勢ですが、そうして、弟子たちの一人一人の足を洗われたのでした。自分が一番偉いと思うことより、むしろ、へりくだって、互いに赦し合い、仕え合いなさい、イエス様は自ら模範を示されました。このとき足を洗ってもらった者の中にはイエス様を裏切ることになるユダさえも含まれておりました。
 しかし、ここでもう一つ押えておきたいことは、弟子たちは、イエス様に自分の汚れた足を差し出したくはなかったということです。当時の道路事情は、現代のように舗装されていないわけですから、足は砂埃で汚れますし、今のように靴下や靴を履いていたわけでもありません。おそらく、素足でサンダルのようなものを履いて歩いていたのですから、それは、汚れるのでした。汗かきの人は、さらに砂ほこりが足にこびりつき、それは見た目にもひどく汚れているといった印象を与えていたはずです。
 外出から帰って来たときには足を洗うということはしていたでしょうが、人に食事に招かれて訪問したとき、その招いてくれた家に行ったならば、まず、足をその家の奴隷か、召し使いが洗ってくれるという習慣があったようです。相手が奴隷でも、自分の汚れている部分を差し出すのは恥ずかしく気の引けることであったでしょう。それが、ここでは、自分たちの主であり、師であるイエス様なのです。とても、それは出しづらいものがあったはずです。
 しかし、そのことをしなければ、イエス様は、自分とは何のかかわりもないことになるとペトロに言われたのでした。イエス様に対しては、何ごとも隠す必要はありません。すべてのことはご存じなのです。自分がいかに汚れているか、それらは、とうにお見通しですから、それを隠す必要はありません。ここでは、私たちが、イエス様に自分の罪をまるごと差し出すことが求められているとも言えるでしょう。それは、悔い改めであるという理解もできます。そして、その汚い足をイエス様に洗っていただくのです。汚ければ汚いほど、そのままの足をイエス様の前に差し出すことが大事です。
 先にも述べましたように、イエス様が、足を洗った弟子のなかに、イエス様を裏切ったユダが、含まれていたことを聖書は述べています。イエス様の愛は、自分を裏切る者にも及んでいます。イエス様は、模範として、このことを示したというのですから、まさに、私たちも自分の仲間だけの足を洗って、事足れりとすることがあってはならないことを教えられています。まさに、汝の敵を愛せよ、ということもこのイエス様の洗足の行為のなかには含まれているのです。
 13章の8節に戻りましょう。「ペトロが、『わたしの足など、決して洗わないでください』と言うと、イエスは『もしわたしがあなたを洗わないのなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる』と答えられた」。ここでは、足を洗うという行為は、罪のために汚れた彼らを清めるということを暗に表現しているともとれるでしょう。それは、どうやって洗い清められるのか、それは、イエス様の十字架でした。私たちは、このイエス様の十字架を、自分の罪のための十字架であると、この十字架の出来事によって、私たちの罪は洗い清められたのだと、理解することが求められているのだと信じます。このことを受け入れたときに、私たちは、イエス様と自分との関係をしっかりと自覚することができます。
 親子は、どこかで甘えられる関係をもっています。子供は、親に甘えて育ちます。事柄には、甘えは禁物ということもありますし、愛があるから厳しく育てるという考え方もありますが、親子関係の場合、親は子供に十分に甘えさせることがまずは大事なのではないでしょうか。そこから、人への信頼、愛が芽生えます。そして、親も年老いてあれこれができなくなったときには、子供に甘えていいはずです。こどもは、その甘えを受け止めることが大事です。
 こうした関係には忍耐や愛がなければならないし、逆に、こうした互いに依存する関係の中で、愛もさらに育てられていくことになるのでしょう。相手を思いやる気持ちが育っておれば、まずは、子育ては○だと思います。それは、親から子への愛ですが、幼子の甘えをとことん受け入れるところから始まります。
 私たちは、イエス様から共に生きるということをいろいろと教えられますし、キリスト教のなかでは、依存ということは評価できる概念だと思います。共に生きるというのは、依存し合う関係でもあるでしょう。弟子たちに互いに足を洗い合うようにとの教えの出発点は、イエス様に私たちがとことん甘えるところから始まります。
 キリスト者たちは、神様に、イエス様に依存することをたいへんよいこととして、教えられています。神様に、イエス様に、何ごとも委ねることはほめられることです。そうしていただいた恵みを数え、神様に愛情を感じ、そこから従うことが自ずとできるようになりますが、御言葉だからといって、その御言葉のとおりに事柄を進め、つまり、従うことをまず行って、それから恵みへと至り、さらにますます従う喜びに生きる者にさせられていくのです。
 しかし、事柄の初めは、イエス様の十字架にあります。イエス様は弟子たちの足を洗いました。顔を洗ってあげたのではありません。手を洗ってやったのでもありません。足を洗ってやりました。それは、足は、当時としては、一番汚れていたからです。足を洗うということは、当時の生活のなかでは毎日のことであり、普段に見かける光景でした。
 それは、自分でも洗うことはあったでしょうが、お金のある家は、奴隷や使用人が行っておりました。このとき、主であり、師であるイエス様が人のなかでも一番汚い所、足を洗った、弟子たちの足を洗ったというところに大きな意味がありました。これは、弟子たちが受けるべきものでした。なぜなら、これを受けないのであれば、イエス様とは何のかかわりもないことになるとまで、言われたことだったからです。
 今の私たちにとっては、このイエス様が私たちの足を洗うという行為は、イエス様の十字架によって、私たちの罪が赦される、ということを意味しており、この出来事を受け入れるというのは、このことによって私たちが赦されたのだということを信じることであるということです。ここから、イエス様と私たちの関係は始まるのです。
 そして、今もなお、私たちが毎日毎日犯す罪、汚れた足をイエス様は、たらいに水をくみ、腰に手ぬぐいをまき、洗ってくださり、それをふき取ってくださっているのだと、思うのです。そして、今日も、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と言われているのです。


平良憲誠 主任牧師

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