詩編51編1~14節
打ち砕かれ悔いる心
この詩は、「ダビデがバトシェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき」に作られたことになっています。この出来事については、サムエル記下の11章、12章に載っています。ダビデは、エルサレムの王宮の屋上から一人の女性が、水浴びをしているのを見ました。大層美しいこの女性は、自分の家臣ウリヤの妻バトシェバという者であることがわかりました。
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詩編37編1~11節
(平和の日礼拝)
沈黙して主に向う
お読みいただいた箇所は、1節から11節ですが、詩編37編全体の御言葉に耳を傾けて参りたいと思います。詩編の37編は、勧善懲悪的な内容となっています。主に従う者は祝され、逆らう者は、滅びるというのです。逆らう者は、悪事を謀る者であり、不正を行なう者、剣を抜き、弓を引き絞り、借りたものを返さない、主に従う人を殺そうとする者などとし . . . 本文を読む
詩編23編
羊飼いなる神
詩編23編は、「主は羊飼い」という隠喩(「ようだ」を使用する譬えは直喩という。隠喩の方が、イメージがより鮮明、強烈になるということはあるかもしれない)で始まっています。だから、「わたしには何も欠けることがない」というのです。おそらく、詩編23編全体は、この1行に集約されるのではないでしょうか。
羊飼いは、名前のごとく羊の世話をします。羊というのは、私たち . . . 本文を読む
詩編8編1~10節
神が御心に留め、顧みてくださる
詩編8編は讃歌(神様への讃美の歌)であり、そのテーマは、この詩の最初と最後にある「主よ、わたしたちの主よ、あなたの御名は、いかに力強く、全地に満ちていることでしょう」という感嘆文に表現されています。詩人は、夜空の月や夥しい星をながめて、神様の創造の御業に思いが至りました。幼子や乳飲み子までが、天に輝く神様の威光をたたえていますと、それは、 . . . 本文を読む
詩編1編1~6節
いかに幸いなことか
詩編は、150編から成っています。その多くは、ダビデの作品となっていますが、それは定かではありません。おそらく、そうではないということです。ダビデをしのんで歌ったがために、そのようにダビデの作というような扱いになったのではないかということです。実際は、その時代、その時代に生きたイスラエルの人々が、歌ったものだったのでしょう。その中には、民族として . . . 本文を読む
マタイ福音書22章23~33節
復活された方のいのちにあずかる
ユダヤ教のいわゆる宗教的派閥のひとつであったサドカイ派の人々は、死者の復活というものを信じてはおりませんでした。それに比べ、ファリサイ派の人々は信じておりました。使徒言行録の23章の8節には「サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めているからである」とあります。その点では、サドカイ派とファリサ . . . 本文を読む
マタイ福音書6章25~34節
明日のことまで思い悩むな
この有名な説教に至る前のマタイによる福音書の6章19節からのところと、24節からの箇所で、イエス様は、富について述べています。はじめの方は、「富は、天に積みなさい」、ということであり、後の方は、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」ということでした。両者とも、神様の御国を望み、神様に仕えよ、ということです。そして、この「思 . . . 本文を読む
マタイ福音書17章24~27節
イエス様が『釣りをしなさい』なんて
この聖書の箇所から説教をするなどという人は、よほどこのお話に感じ入ることがあってのことでしょう。釣り好きの私でさえ、ここから説教など考えたこともありませんでした。なぜなら、この箇所からどのような福音を聞くことができるか、ということです。そう容易なことではありません。
「イエス様が『釣りをしなさい』なんて」、という題を . . . 本文を読む