香取神社を後にして、国道49号線を南にいくと、川にぶつかる。元荒川である。昔はこれが荒川で、後に荒川をつくったから、これが元荒川という。そのさきには古利根川があるのだけれど、利根川がほかにできたから、これは古利根川というそうだ。
越谷御殿(埼玉県越谷市御殿町)は、元荒川が蛇行し、舌状の突端になった地にあり、 久伊豆神社の対岸に位置する。徳川家康は慶長七年(1602)奥州道を公道に指定し、越谷宿を取り立てた慶長九年(1604)には増林にあった御茶屋御殿を越谷郷土豪会田出羽資久の敷地内(元荒川べり)に移し、壮大な御殿を建造したのであるという。今から408年前の出来事である。
どこにあるの?ときいても案内してくれた人はどこにもないという。御殿の面影を偲ばせるものは何も残っていなかった。久伊豆神社前の元荒川べりの一角にあり、当時、その面積は六町歩(約6ヘクタール)あったという。ここに徳川家康が鷹狩に来ていたという。そしてその休憩所として越谷御殿がたてられたのである。人々に語り継がれる『御殿町』という地名にその名を残しているだけのデータをつきつけられたのだ。川べりに石でできた板碑が立っていた。
越谷御殿(埼玉県越谷市御殿町)は、元荒川が蛇行し、舌状の突端になった地にあり、 久伊豆神社の対岸に位置する。徳川家康は慶長七年(1602)奥州道を公道に指定し、越谷宿を取り立てた慶長九年(1604)には増林にあった御茶屋御殿を越谷郷土豪会田出羽資久の敷地内(元荒川べり)に移し、壮大な御殿を建造したのであるという。今から408年前の出来事である。
どこにあるの?ときいても案内してくれた人はどこにもないという。御殿の面影を偲ばせるものは何も残っていなかった。久伊豆神社前の元荒川べりの一角にあり、当時、その面積は六町歩(約6ヘクタール)あったという。ここに徳川家康が鷹狩に来ていたという。そしてその休憩所として越谷御殿がたてられたのである。人々に語り継がれる『御殿町』という地名にその名を残しているだけのデータをつきつけられたのだ。川べりに石でできた板碑が立っていた。