犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その70

2013-11-01 22:36:55 | 国家・政治・刑罰

 仕事を覚えるということは、右も左もわからない場所に立たされてオロオロし、理不尽に怒られながら、習わずに慣れるということである。そして、月単位や年単位の時間を経て、ようやく自分の周りの組織の構造が見えてくるものだと思う。そこでは、「日本のため」「世界のため」との高い志を持つ余裕もない。「社会を変える」といった無責任な言葉の空虚さを思い知るのみである。

 弁護士の仕事を覚えるということは、黒を白と言いくるめる技術を磨くことであり、聞かれたら嫌な質問を適切に発する能力を身に付けることである。刑事弁護人から犯罪被害者に向けられた質問として、私がこれまでに聞いた中で最も腹黒い質問は、「厳罰が実現されることで正義感が満たされるのか」というものであった。この質問は狡猾であり、非常によく考えられていると思う。

 この手の質問は、「はい」と「いいえ」のいずれに答えても論理に矛盾を生じ、蟻地獄に陥る。すなわち、問いから答えを得ることが目的ではなく、問われる者の自尊心を傷つけ、体力と気力を奪うことが隠れた目的である。そして、このような問いを思いつく者は、相手方の痛いところを突いて喜々とし、これに伴う一瞬の自己嫌悪については、すべて社会正義の大文字によって埋められる。

 「正義は勝つ」という理念を標榜する者は、賢い者であれば賢いほど、他方でその理念の偽善臭を知っている。そうでなければ、「あなたの正義感が満たされるのか」といった嫌らしい問いは出てこない。このような答えられない問いの論理は閉じているが、実際の人間の日々の生活は閉じていない。例えば、「やられたら倍返し」といった流行語は、容赦なくどこからか耳に入ってくる。

(フィクションです。続きます。)