犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その74

2013-11-08 22:35:47 | 国家・政治・刑罰

 検察官は、論告求刑の中で「遺族の厳罰感情は峻烈を極め」という定型的な言い回しを述べた。この主張が弁護人の内心に及ぼす効果は決まっていると思う。第1に「弁護人の力が足りなかった」という居心地の悪さ、第2に「自分の力ではどうしようもなく自分の責任ではない」という開き直りである。そして第3に、峻烈な感情が上手く推測できず、自責の念よりも「引く」「白ける」という感覚が優勢になることである。

 怒りや憎しみの感情は、現代ストレス社会の構成要素であると思う。家庭内ではしつけと虐待の区別がつかず、学校では指導と体罰の区別がつかず、会社では社員教育とパワハラの区別がつかない。ここで問題とされているのは、正しい怒り方や、「怒る」と「叱る」の違いである。これに対し、犯罪被害の局面になると、なぜか「怒りの感情からは何も生まれない」という抽象的な話に飛んでしまう。いかにも目盛りが荒い。

 「挫折からの立ち直りの方法」という話なら、このストレス社会には満ち溢れている。これは、あくまでも従来の価値観を前提に、その距離の測り直しを迫られる事態である。これに対し、価値観の足場が崩壊するのであれば、「挫折」という概念も崩壊する。これを挫折と呼ぶことは不可能であり、犯罪被害は挫折ではない。挫折や失敗から立ち直るという話であれば、犯罪被害に遭うことに積極的な意味が与えられてしまう。

 犯罪被害に遭っても前向きに生きて立ち直るのが人間にとって有意義な経験なのであれば、世の中にはもっと犯罪が起きればよい。犯罪を犯しても更生してプラス思考で生きることに価値が認められるのであれば、社会ではもっと犯罪が犯されなければならない。犯罪の加害と被害に何らかの意味を認めるとは、現にこのようなことである。これに対抗し得る論理は、「二度とこのようなことが起きないように」のみである。

(フィクションです。続きます。)