犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その84

2013-11-22 22:32:38 | 国家・政治・刑罰

 依頼者は、公判が始まる前と全く同じように、被害者と家族に対するお詫びのしようがない気持ちを私に語った。ただ、私はその中から微妙な変化を感じ取った。依頼者が裁判官の言葉に不満を持ち、それを私に訴えてきたからである。判決宣告後の説諭の中で、裁判官は、「『注意を尽くしていたはずだ』という被告人の言い分もわかりますが……」と語っていた。依頼者にとっては、この一言が引っかかるものだった。

 依頼者は私に訴えてくる。「自分は全面的に反省し、謝罪の念を示すことしか考えていなかった。法廷では一言も言い訳をしたつもりはない。私は最初から最後まで自分に厳しくしていた。一切の保身や弁解はしていない。それなのに、あの裁判官からは、私が言い訳をしたようなことを言われた。この点だけはどうにも納得できない。裁判官は人の話をしっかり聞いていたのか。あの言葉にはずっとモヤモヤしている……」。

 私はこの言葉を聞いて、身の置き所のなかったはずの依頼者に、その場所が簡単に発生してしまったことを感じた。被害者側はモヤモヤなどできない。人間において、純粋な反省や謝罪の念だけを持つことは至難の業である。反省や謝罪の念には、それが報われるのかどうかという憶測が付きまとう。そして私は、自分の内心に安堵の気分が生じたことに気付く。人の命を奪った者に対して全面的に親身になることの反倫理性が表面化していたからである。

 法律家は、「加害者=悪、被害者=善」の構図に懐疑の眼を向けたがるが、これを逆にするのは単なる政治論にすぎない。この構図は法律の条文などには書かれてはいないが、私は、自身に内在するある種の直感とも言うべきこの構図の正当性を確信する。もちろん勧善懲悪の二元論のことではない。今回、依頼者が反省の情の存在を善とし、それを評価しなかった裁判官を悪であると断じた場面に生じたそれのことである。

(フィクションです。続きます。)