犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その85

2013-11-24 21:51:54 | 国家・政治・刑罰

 依頼者が今日来所した主目的は、執行猶予の獲得に対する成功報酬金の支払いである。私はこの業界での経験を積むうち、人の不幸や弱みを飯の種にしている後ろめたさが徐々に薄らぎ、お金の力に助けられることのほうが増えてきた。これは、私のように金銭欲が薄く、人様からお金を頂くことに罪悪感を持つような人間のほうがより強く実感することである。皮肉なものだと思う。

 依頼者にお金を請求することが不得手な弁護士は、交通事故の民事事件ならば被害者側に就くほうが数段楽である。被害者側の弁護士ならば保険会社から支払われた賠償金の一部を報酬に充てられるのに対し、加害者側の弁護士ならば新たに請求書を送らなければならないからである。そして、ふと気がつくと、「被害者の代理人の仕事は金になる」という現実に呑み込まれている。

 法律事務所は社会の病理を扱う場所である。そして、その主宰者が病弊しないのは、人の痛みや苦しみが「肉体的苦痛」「精神的苦痛」に商品化されているためである。この苦痛は大きいほうが価値がある。多額の金額が動き、その分だけ報酬金も高額になるからである。ここでは、誠実な弁護士であればあるほど、「お金よりも誠意が問題なのだ」という依頼者の声を前に葛藤することになる。

 前科者の社会復帰の問題については、学生時代に理屈として学んだことと、現在の私の実感は大きく異なる。現代社会で重宝される人材は、逆境に際してのメンタルの強さや、過去を引きずらない切り替えの早さを備えた者である。前向きであることは評価され、1つのことを深く掘り下げる姿勢は評価されない。そして、私が見る限り、この依頼者はもう既に社会復帰ができている。

(フィクションです。続きます。)