犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その83

2013-11-21 21:19:22 | 国家・政治・刑罰

 依頼者は、「本当に親身になって頂いて申し訳ございません」と述べる。この申し訳ないという気持ちは、恐らくかなりの割合で本心であると思う。私のほうも菓子折りを手に、「こちらこそお気遣い頂いて申し訳ございません」と述べる。この申し訳なさも間違いなく本音である。私は、亡くなった被害者の命を前にして、依頼者のために純粋に親身になることを倫理的な悪と判断し、これを密かに法律に優先させていたからである。

 刑事の自白事件の法廷において、最もよく聞かれるフレーズが「申し訳ございません」である。情状証人がそのように謝り、被告人もそのように謝る。いかにも申し訳なさそうな顔をし、申し訳なさそうな声を出す。裁判官に対して謝り、傍聴席に対して後ろ向きに謝り、さらには天に向かって平謝りする。これは条文に書かれていないルールである。「ひたすら『申し訳ありません』と言うこと」が1つの決まりである。

 頭を下げ続けていれば何とかなるというのは、この世間を生き抜くための1つの知恵である。人には他人の内心は見えない。大事なのはとにかく形式である。そして、「反省の情があれば刑は軽くなる」という決まりがある法廷では、この知恵が顕在化する。実際のところは、「二度と致しません」と誓った者がすぐに再犯で同じ場所に戻り、「今度こそ本当に二度と致しません」と誓う。ここでの言葉の価値は吹けば飛ぶようにに軽い。

 法廷での「申し訳ございません」の連発に比べれば、今日の私と依頼者の「申し訳ございません」はごく自然であり、お互いに本音である。依頼者は申し訳なさそうな顔は作っていない。法廷という舞台の演者の肩書きから解放され、肩の荷を下ろしていることがわかる。被害者の家族が断じて受け取らなかった和菓子は、「お見舞い」から「お礼」に名を変えると、大人社会の気遣いを示す役割を簡単に果たすようになる。

(フィクションです。続きます。)