犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その89

2013-11-30 22:22:59 | 国家・政治・刑罰

 自動車運転過失致死罪を構成する要素は「死」である。ところが、客観的事実を証拠で認定する法律の言語では、死を語るのに逆説が使えない。ここでの問題は、あくまで刑法第211条第2項本文の「よって人を死傷させた」の文言の解釈である。この解釈如何によって実際に有罪・無罪が変わり、人の運命が左右されるというのが、法律家が自己の職務の重さを自負する所以である。すなわち、法律家は言葉への重責の負担を誇る。

 私は法律家の1人であるが、法律家が言葉に対して重責を担っているとは全く思わない。逆説も使わずに「死」を語ることなど不可能だからである。そして、厳粛な法廷で行われていることは、被告人の前に見ず知らずの裁判官が出てきて、善悪を決めてくれるということである。人定質問、黙秘権の告知、論告求刑といった仰々しい用語は、その手続きの権威付けに一役買っている。ここで、人は善悪の判断を法律と裁判に委ねてしまう。

 「君の論文は被害者側に偏りすぎている。公平な視点に立たなければならない」。大学院の教授からの酷評がふと頭に浮かぶ。「犯罪被害者救済の分野で画期的な論文を書いて一旗揚げたい」。大学院の同級生の野心に満ちた言葉も思い出される。なぜ自分が自分であると簡単に認められるのだろう。学問の権威は、なぜ破壊的な実体験のある者の姿に畏怖せず、逆に上から目線で論評するのだろう。狂気の宿らない学問などクズに等しい。

 犯罪による死の論理を取り巻く現実は狂気だ。その論理を扱う立場にある刑事弁護人が「客観的で理性的な法廷」を本気で信じてしまえば、そこに生じるのは法の壁であり、そこで行われるものは責任能力と精神鑑定を含む茶番劇のみであろうと思う。全ての価値観が崩壊した狂気は、やはり狂気によってしか受け止められない。私は今日も、語り得ぬ沈黙の前に言葉を失い、正気の側に軸足を置きながら、社会の片隅で日々の雑事に励んでいる。

(フィクションです。これで終わりです。)