犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その78

2013-11-14 22:21:29 | 国家・政治・刑罰

 人が見る世界は、自分を中心として周辺へと広がっている。司法制度改革によって、刑事弁護を取り巻く状況は大きく変わった。以前は、刑事事件は儲からない仕事だと言われていた。特に国選弁護は金にならない仕事の典型だというのが業界の共通認識であった。ところが、ここ数年で弁護士の数が大幅に増えた結果、国選弁護は若手弁護士の貴重な収入源となるに至っている。

 仕事の量が減って暇になったのであれば、その分1つ1つの事件を丁寧に掘り下げ、時間をかければいい。これが私の本心であるが、あまりにも精神年齢の幼い考えであることは自分が一番わかっている。売り上げの減少やローンの支払いよりも人様の犯罪のほうに真剣に悩むような者は、事務所の経営などできない。暇があるなら、新規顧客の開拓の戦略を練らなければならない。

 ベテラン弁護士は刑事弁護を負担と捉え、若手弁護士は刑事弁護を貴重な収入源と捉える。いずれにしても、根底には費用対効果の問題がある。世の中の実際のところは、その現場に立ってみないとわからない。なぜ刑事弁護の理念は、いつも犯罪被害者の存在を眼中から排除するのか。私の学生のような問いは、理念を利権と読み替えたとき、非常に稚拙なものであるとわかった。

 理論と実務は全く違う。刑事弁護が実務上このように捉えられている最大の要因は、弁護士と犯罪者の社会的地位の格差に弁護士が慣れすぎた結果だろうと思う。学歴・年収・名誉・将来性などの全ての点において、前者はエリートとされるのに対し、後者の序列は多くの場合その対極にある。「犯罪被害者の権利を認めると被告人の人権が危うくなる」といった純粋な話ではない。

(フィクションです。続きます。)