犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その75

2013-11-10 22:50:19 | 国家・政治・刑罰

 弁護人の使命は、国家権力の濫用から市民の人権を守ることである。そして、その権力の怖さを象徴しているのが警察・検察権力であり、弁護人はこれに闘いを挑み、権力を監視する。……これが、私が学生の時分に捉えていた典型的な権力の構造であった。後に私が肌で感じた権力は、このような構造とは違う形をしていた。頭だけの情報と、それによって作られたイメージは、細部の描写がいい加減なものである。

 私が検察官に関連して権力というものを強く知らされたのは、以前の法律事務所に入って間もない新人の頃である。私は電話で聞き違えをし、書類の中の担当検察官の肩書きを誤り、「検事」と「副検事」を誤って書いてしまった。検察官は笑って済ませてくれたが、所長弁護士の怒りは苛烈を極め、私は直立不動で20分以上の叱責を受けるしかなかった。万死に値するミスをしたのだから、自分の無能を責めるより仕方がない。

 副検事に対して「検事」と呼びかけることは、そのプライドを傷つけ、屈辱を生じさせる行為であり、絶対にあってはならない。この粗相は、業界内では強盗罪や放火罪よりも悪い所業である。逆に、検事を「副検事」と間違えることは、それにも増して非常に失礼な過ちである。この失策は、殺人罪や強姦罪よりも重い。私には既に業界の感覚が染み付いている。組織の論理が理解できなければ、社会人としては生きられない。

 所長は、「部下のミスで事務所の看板に傷がつくなど悔しくて寝られない」としばらく憤っていた。全ては私の落ち度である。所長は、「今後この事務所は検察庁から軽視され続けるだろう」と自嘲気味に語ってもいた。私はひたすら詫びるしかない。切腹に値する過ちを犯しつつ生き恥を晒しているという感覚を、私は内面化して身につけていた。これは、私が「権力」というものを頭ではなく全身で感じる契機であった。

(フィクションです。続きます。)