特大の雷に立ちすくんだ瞬間の目の前の風景を、私は今でも画像として覚えている。このような形で記憶があるということは、それが言語によって解釈できずに置かれていることの表れである。無理に比喩的に言えば、私は雷の強さよりも方向性に打ちのめされた。所長の言葉を予想できなかった自分の愚かさを悔やんでいだ。
所長の言葉は、プロとしてどこも間違っていない。請求書を後日郵送したのでは遅すぎる。依頼者は一晩寝たら、「誰が弁護人でも結果は同じだったのではないか」「国選弁護人でも何も変わらなかったのではないか」と思い始めてしまう。そして、成功報酬の金額が果たして労力に見合っているのかとの疑念を生じさせてしまう。
社会人となって間がない当時の私にとって、このようなプロの厳しさは、私が予想する厳しさとは違っていた。大学院で刑事政策学や被害者学に取り組み、それを実務に生かしたいとの志は、早々にその存在意義を失った。そして、私には反発する心も起きなかった。私の過去を否定したのは所長でなく、自分である。
社会の汚い部分を断罪することは、外からの批評家の視点を持てば簡単にできることである。しかし、多数の顧問先を抱えて成功している所長を前にすると、私は世間知らずの我が身の無力さを思い知らされるしかない。社会人の責務とは、顧客の求めに応じることであり、それはプロセスではなく結果によって判定される。
(フィクションです。続きます。)