犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

中川一政著 『腹の虫』

2010-11-19 23:43:51 | 読書感想文
 p.10~
 古今を流れる時間の一点に人間は生れる。東西古今のただ一点の場所に人間は生れる。そしてその時間と場所がかさなる一点に人間は生れる。それが人間の運命である。人間はその運命を足場にして生きてくる。
 私はロシアでもフランスでもない、日本に生れた。そして青森でも鹿児島でもない、東京に生れた。室町でも江戸でもない、明治に生れた。そして明治の10年でもなければ30年でもない、明治26年に生れた。もっと微細に言えば生年月日にも及ぶかも知れない。

p.53~
 私は研究所などで人体や石膏像をかいている生徒が、木炭や筆を立ててモデルの寸法割合をはかっているのを見ている。それで形はとれると思う。しかし私の捕捉したい形とその形は違うと思う。目に見える形ははかれる。目に見えない形ははかれない。目にみえる形と目にみえない形を混同して私は嘆いていたようだ。
 釣り落とした鯛は大きいと云う。三尺もあったという。そんなに大きくはない。一尺くらいだと傍の者がいう。釣り落とした者には感動があっていう。傍の者は冷静だから一尺という。我々が画をかくのは物を見て感動するからだ。感動がなければ画をかかない。
 道元の言葉であろうか。「世界は世界にあらず、これを世界という」。私達の仕事で云えば、「形は形にあらず、これを形という」。これが私の探究であった。

p.115~
 われわれは、フォルムとかムーヴマンとか、デフォルマシオンとかいっている。我々の仕事は感動をいかにして、画面のなかに定着させるかという事である。簡単にいえば、重箱にぼた餅をいれるのだ。この重箱にぼた餅をいくつ入れるか、いくつ入れたらいいか。そういってもいいのである。もう少しむずかしく云えば、虎でも獅子でもよい、いかに檻の中に追いこむか、殺さないで生かして檻の中に住まわせるか。
 ムーヴマンとは音楽でいえば、節まわしである。デフォルマシオンとは永歌することである。それはあくまで、自然に出ずるものであって、故意ではない。
 私は13、4から歌をつくっていた。20すぎる頃になって詩をつくった。画をかくようになって歌にも詩にも遠ざかったが、今思うとそれが私の画業の発足であったと思う。私は詩や歌をつくっているうちに、間を覚え、構図を覚え、ムーヴマンを覚えた。それ故、セザンヌの画集をみているうち、いち早く画のムーヴマンを見てとった。セザンヌの林檎は、ただ並べてあるだけではない。1つ1つの間に目にみえぬ受け渡しがある。



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 この本は昭和50年の出版です。間や構図の把握が無意識の意識化の過程であるならば、それは言語化の要素を含むものであり、歌と詩が画業の発足であったとの中川氏の述懐には圧倒されます。
 
 高度情報化社会では、無意識の意識化に関する敏感さは、消費活動を煽り立てられる情報をも把握してしまうため、明治26年生まれの中川氏の示唆を実践するのは難しいと思います。それが世界から取り残されることを意味するのであれば、非常に皮肉だと思います。