犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

山田太一著 『路上のボールペン』

2010-11-03 00:38:11 | 読書感想文
p.25~
 ある時、ひどくバカバカしい議論をしかけてくる男がいて、私は腹を立てて、これでもか、というように、その男の議論のつまらなさを叩いた。帰り道は、ちょっと勝ち誇ったような気持だった。その時、終始一緒にいた友人が、ボソッといったのである。高田馬場のホームであった。電車の来る寸前に、「君は―」といった。
 「権力を持つと威張るんだろうな」。そこへ電車がすべり込んで来た。私は冷水を浴びたような気持だった。なにが嫌いといって、権力を持った人間の居丈高ほど嫌いなものはない、と思っていた。ところが、いわれてみれば、確かに私の中に、そういう嫌な芽がないとはいえないのであった。
 高田馬場から渋谷まで、口がきけず、今考えれば初心だったと思うが、渋谷でおりる時、「俺は、一生、決して威張らないよ」といったのだった。友人は、「そう」と、ちょっといたましいものを見るような目でいった。その目も忘れられない。私は、それ以降、威張ることができない。議論で、徹底的に勝つことができない。

p.181~ 『クリスチーネF』を見て より
 13歳の西ベルリンの少女が、とどめようもなく麻薬に溺れてしまう。一口にいえば、そのプロセスを余計なものをはぶいて執拗に追い続けた映画である。
 恐ろしいのが麻薬なら、多くの観客にとってそれは他人事である。「怖いんだワァ」といってその恐ろしさを楽しむだけである。あるいは「だれかにすすめられても、やめとこ」という啓蒙的効果にとどまる。それだって意味のないことではないし、この作品が、そういう側面の効用を持っていることも事実だが、演出の焦点はそこにはない。作品の主調音は「孤独」である。
 荒廃の根源にあるのは、麻薬ではなく孤独なのである。そしてその孤独は一映画がどうこうなし得るものではない。出来ることは、ただそのいたましさから目をそむけずにいるくらいのことだ。そうした作者の姿勢が、問題劇にありがちな観念先行、図式性、傲慢、泥くささから、この作品を救っている。

p.258~ 鴨下信一氏の解説より
 山田さんの書くものを見れば、これは誰でもすぐわかることだが、<腐臭>を嗅ぎつける鋭敏さというか、世間の腐っている部分、家庭の腐りかけている部分、自分の中の腐りはじめている部分から立ちのぼってくる臭気に対する敏感さ、これがきわ立っている。そしてこの点についての山田さんは、まことに容赦のない告発者であって、その告発ぶりは峻烈をきわめているといっていい。
 しかし一方、山田さんの中ではいつでも「(それが)そうだとすれば」と留保をつけて考えるところがあって、よくそれを山田さんの「人間に対する優しさ」などと一口に言うけれども、どうもそれは正しくないような気がする。それはもっと複雑な<何か>なのであって、これもそんなに簡単にいってしまってはおこられそうだが、ぼくらが<現実に生きてゆく>ことと何かつながりがあることなのだろう。それは妥協というような言葉で言われるべきことではなく、もっと人間の本質的な部分に根ざしているもののように思える。


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 この本は昭和59年の出版です。同年の「現代社会」も難問が山積しており、いつの時代でも「現代社会」はロクでもないものと捉えられていると思います。その意味では、「あの頃は良かった」「80年代はいい時代だった」とは全く思いません。

 それでも、この平成22年の現代社会の難問は、山田氏が示しているレベルまで行っていないように感じます。それは、世間の<腐臭>への敏感さに基づく苦しみではなく、<腐臭>への鈍感さがもたらす苦しみにレベルが下がっているということです。この問題は、経済や景気の問題とは全く別だと思います。