犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その65

2013-10-26 23:43:48 | 国家・政治・刑罰

 組織において求められるものは、社会人としての責任感である。「公」と「私」に分ければ、社員の家族の死亡事故は私的な出来事でしかない。会社のシステムの流れにとって、さらには取引先や来客にとって、失われた命の重さも儚さも無関係である。組織というものは、公私混同が放任されればすぐに崩壊する。

 私が会社の同僚の立場であれば、まずは絶句し、少しでも力になりたいとの意思を持つはずだと思う。しかし、会社で立て続けに電話が鳴り、至急のメールの返信に追われ、上司に呼びつけられ、書類の山の前に戻ったときには、そこはもう日常の風景である。社会は甘くない。自分のことだけで精一杯であろうと思う。

 「早く立ち直って元気になってほしい」と願う心の内には、本人のためではなく、自分に仕事のしわ寄せが来ては困るという本音が必ずある。そして、会社組織においては、この本音には正当な地位が与えられるはずである。仕事への集中力を欠き、戦力とならない者がいれば、全体の士気が下がるからである。

 また、私が会社の上司の立場であれば、組織人としての厳しい決断を迫られることになる。体調不良で病欠ばかりしている社員は、リストラの候補に挙げなければならない。職務ではない私事は、早急に「終わったこと」にしてもらわねばならないからである。経済社会の理不尽は、このような場面では無限に連鎖する。

(フィクションです。続きます。)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。