犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

言語ゲームの習得

2008-02-14 17:06:34 | 言語・論理・構造
ある人間が言葉を話しているとすれば、その人間には言語ゲームを習得した瞬間が必ずある。自分がそれを習得した瞬間は、その性質上、言葉で語ることができない。しかしながら、他人の場合であれば、不完全ながらその瞬間を言葉で語ることができる。この瞬間の最もわかりやすい例としては、ヘレン・ケラーが井戸水を手にかけて「ウォーター」という言葉を理解したというエピソードが挙げられる。この話が世界中で語り継がれているのは、単に「三重苦なのに良く頑張りましたね」ということではない。世界各地を歴訪して身体障害者の教育・福祉に尽くした偉人だからということでもない。何だかわからないがヘレン・ケラーの人生の一大転機であった、そこからすべての物が一気に開けた、この瞬間がなければその後のすべてはなかったかも知れない、何となくその点に奇跡を感じるからである。

『奇跡の人』とは、ヘレン・ケラーのことではなく、家庭教師のアン・サリバン先生のことである。言葉が世界を作っている、これをどうやって教えたらいいものか。この謎は、三重苦の人間に限ったことではない。普遍的な言語ゲームの習得は、万人に共通する謎である。幼いヘレン・ケラーが聴力を失う前にわずかに記憶していた言葉は、水を意味する「ウォー」だけであった。アン・サリバンは、わずかな可能性を求めて、あらゆる手段を尽くした。そしてる時、井戸水を手にかけたところ、それが「ウォー」と結びついた。これが「水」だ。この「水」ではない。全世界の川の水、海の水、1億年前の水、1億年後の水だ。物に名前があるとはどういうことか、それは名前が物をその物たらしめていることだ。この瞬間を、まさにそのところのものの言語によって語ったのが、ヘレン・ケラーの「水」のエピソードである。

客観的な世界の実在を信じている現代の科学主義は、言葉によって強烈なしっぺ返しを受けている。人間は、肉体的な暴力のみならず、言葉の暴力によって自殺する。本当の暴力よりも言葉の暴力のほうが苦しい。この「言葉の暴力」という比喩は最初から転倒している。暴力とは言葉である。ヘレン・ケラーが井戸水を触っても、水を意味する「ウォー」を記憶していなければ世界が開けなかったことと同じである。言葉によって暴力は暴力になるのだから、その言葉によって人間が自殺するのは当たり前である。言葉には人を殺す力がある。言語ゲームが習得できないのは苦しい。数学や英語の勉強の落ちこぼれは特に苦しい。新入社員や転職した社員が新しい仕事の専門用語がわからないのも苦しい。言語ゲームが習得できていない状態とは、ヘレン・ケラーの「水」の瞬間が訪れていないことである。仕事がさっぱりわからない、失敗ばかり、怒られてばかり。こうなると、人間は本当に簡単に自殺してしまう。言葉には人を殺す力があるからである。

自らが言語ゲームをしていることに気付いた者は、瞬間的に言葉が出なくなる。絶句するしかない。「水」は「水」であって「水」以外ではなく、この「水」ではないが、この「水」である。これ以上何を言う必要があるのか。この地点から眺めて見ると、言語による構成物である法律は、やはり言葉の安売りである。例えば、水道原水水質保全事業の実施の促進に関する法律第2条2項は、「この法律において『水道原水』とは、水道事業者が河川から取水施設により取り入れた前項の水道事業又は水道用水供給事業(水道法第3条第4項に規定する水道用水供給事業をいう。第14条第2項において同じ。)のための原水をいう」と定めている。どんなに法律で細かく「水」を定義しても、この世には「水」という言葉を語る人間の数だけ、「水」という言葉を覚えた瞬間を忘れた人間が存在するだけである。

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