犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

栃木県鹿沼市・クレーン車事故 (後半)

2011-04-28 23:57:41 | 時間・生死・人生
(前半から続きます)

 息子や娘を学校に見送ったその日から、両親はなぜこのような悲しい思いをしてまで生き続けなければならないのかという根本的な問題を突きつけられ、それは人間存在の意味に関する解答不能の問いであるにもかかわらず、立ち直りや乗り越えが一般的な解答として固定化している言語空間においては、問いの所在が理解されず、辟易して口を閉ざす事態が生じるように思います。
 人生は一度しかないという哲学的真実は、一度しかない人生なのだから前を向いて立ち直ったほうがよいという結論を呼び起こしますが、同時に全ての人生は一度しかない人生である以上、一度しかない人生を幼くして終えてしまったことの意味にも直面せざるを得ず、幼くして終えてしまった人生にも意味があると言われればその程度の意味に価値はなく、幼くして終えてしまった人生に意味はないと言われれば遺された者が前を向けるはずもなく、どちらに転んでも行き止まりであると思います。

 息子や娘を学校に見送ったその日以降、両親に対しては1日も早い立ち直りを求める善意の声が寄せられ、明るく生きなければならないのだと思って世の中を見渡してみると、何の事件にも事故にも災害にも巻き込まれずに明るく生きている人は享楽的かつ刹那的に人生の時間を浪費しており、世間はバカバカしい出来事にもあふれており、両親は立ち直ることの無意味さと軽さと気楽さに打ちひしがれざると得ないと思います。
 人は命があるだけで十分なのだと訴えたくても、世の中はそのようには動いておらず、生死に比べれば些細な問題が大半を占め、それに対する不平不満で世間はあふれており、ゆえにその程度の問題で大騒ぎできる人々に嫉妬し、しかも嫉妬といった人間の感情を直視する繊細さも身につけ、要するに人は幼い子供の突然の事故死の重さを受け止めたくないのだと悟るとき、立ち直りは死の軽さに加担することなのではないかとの疑問も避けがたく生じるものと思います。

 息子や娘を学校に見送ったその日から、なぜか自分の息子と娘の時間だけが止まり、普通に生きている他の同級生は小学生から中学生になり、高校生になり、成人式を迎えるという紛れもない現実の中で生きていくしかこの世で生きる方法がないとなると、何の罪もない同級生が憎らしく思われ、しかもそのような深い部分の感情は他人には理解不能であると知り、同時に自責の念も呼び起こし、両親の苦悩と葛藤は尽きないことと思います。
 新聞では明るい記事から目を逸らし、人の死や悲惨な事故の記事を探し、特に幼い子の死の記事を見ては心を痛めながら安心し、両親はこの複雑な心情は大抵の場合には誤解を受けるため口外することをせず、無理に明るく振る舞っては絶望のどん底に落ち、逆に明るく振る舞わなくても絶望のどん底に落ち、一度立ち直ったと思われればそれを撤回できなくなる圧力も感じ、苦しみが一生続くというのは終わった過去を引きずることを指すのではなく、日々の苦しみが新たに生まれる現実を指すことを知らされるのだと思います。

 息子や娘を学校に見送り、最も大切なものを失ったことにより、人は富や財産、名声や名誉といった世の中の多くの喜びが無意味であり、その価値が自分にとっては悲しみや苦しみでしかない現実に直面させられるはずですが、これは世間的な価値観に反しており、ひねくれ者、変わり者とのレッテルを貼られて社会生活に支障を生じないため、今後何十年と続く日常生活は、世間で生きるための演技の連続にならざるを得ないと思います。
 1人の人間に経験できることはほんの一握りであり、人には経験のできないことは想像するしかなく、しかも想像できないことはできないと認めるしかありませんが、世間はそれを認めない多数の人間で動いており、富や財産、名声や名誉に無上の価値を置いているため、その価値の押し付けは苦悩をもたらし、しかもその程度の価値を受け入れてしまえば幼くして終わった人生があまりに惨めで憐れであり、その人間存在が可哀想でたまらなくなる以上、両親は世間的な価値から逃避し、不幸な人生を希望する以外に選択の余地はなくなるものと思います。

 上記のことを、刑法学では「被害者遺族は感情的に運転手の厳罰を叫ぶ」と言います。

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