犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

光市母子殺害事件・最高裁判決 その2

2012-02-23 23:18:06 | 国家・政治・刑罰

本村洋氏の会見より

 「今回、死刑という判決が下され、遺族として大変満足している。ただ決してうれしいとか喜びとかは一切ない。厳粛な気持ちで受け止めないといけないと思っている。」

 「日本は法治国家で、この国には死刑という刑罰を存置していることを踏まえると、18歳の少年であっても、身勝手な理由で人をあやめ、反省しないと死刑が科される。日本という国はそのくらい、人の命について重く考えているということを示すことが死刑だと思うので、死刑判決で日本の社会正義が示されたことは大変良かったと思っている。」

 「これが絶対的な回答ではないと思うし、判決を受けて議論があると思う。死刑を存置すべきだとか、廃止すべきだとか色々な考えが出ると思うが、これをきっかけにこの国が死刑を存置していることを今一度考えていただきたい。裁判員裁判も適用されていることですし、身近に起こる事件、犯罪について考える契機になれば、妻と娘の命も、今回、死刑が科されるであろう被告の命も無駄にならないと思っている。」

 「彼のしたことは許されない。きっちりと罪を償わないといけない。判決をしっかり受け止め、罪を見つめ、反省した状態で刑を堂々と受け入れ、全うしてもらいたい。これが私の伝えたいことです。」


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 大月孝行被告が実名で報道されるようになっても付く「元少年」という肩書きは、このような場面だけに用いられる妙なネーミングだと思います。元少年が成人して10年も経てば、元少年が成人ではなかったことに基づく特有の問題は、解決するまでもなく解消しています。事件発生後からテレビで理路整然と語り、報道陣の質問を受けて立っていた本村氏は、当時20代前半でした。現在の大月被告(30歳)よりもかなり年下です。

 大月被告が何歳になっても「元少年」である限り、その少年期の人格形成の問題が深く追究されることに終わりはありません。殺した方・殺された方という力関係がひとたび成立し、それが法律論・刑罰問題として論じ始められると、世の中では当たり前のことが当たり前ではなくなります。しかも、犯罪が凶悪であればあるほど、法律論・刑罰問題においては、殺した方の優位性が際立ってくるように思います。

 刑事裁判において弁護団から死刑の違憲性が主張されるとき、そこでは具体的な犯罪に対する刑罰が扱われつつも、殺人や死刑が抽象化されることになります。これは無差別殺人の裏返しのようなもので、どのような被告人がどのような殺人事件を犯したかという問題は、実のところ後から付いてくるように思います。「殺されないなら誰でもいい」、「死刑にならないなら誰でもいい」ということです。

 このような抽象化の過程において、1人1人の殺人者の具体的な犯行を死者である被害者の側から問題にされることは、非常に具合が悪いこととなります。例えば、生きたままドラム缶に入れられガソリンを掛けられた、あるいは首を生きたまま電動のこぎりで切断させられたといった犯行の詳細を前にすれば、「死刑は国家が国民の生命を奪うものである」という抽象化は上手く行かなくなります。「国民全体で死刑存廃の議論を深めるべきだ」と述べつつ、死刑執行の絞首の瞬間の部分に焦点を当てるのは、この抽象性を保持するための対抗論であると感じます。

 本村氏の問題意識は、徹頭徹尾人間としての具体的な体験に根ざしており、地に足が付いたところからの抽象性の構築です。私は今回、本村氏の言葉と専門家の解説を比較してみて、専門家の中には権益とは無関係に単に本村氏の言葉の意味が耳に入らない人が多くいることを知りました。犯罪や刑罰の問題に人生を賭けて取り組まざるを得ない立場を強いられた者の言葉は、先にある普遍的な真実が、人間の口を借りて生じたようなものです。この単純な事実を見落とせば、本村氏の言葉が偽善性の告発であることにも気が付かないはずだと思います。

 刑事法の有識者にしてみれば、本村氏の言葉が議論に値しないと考えるのは、この「自分の体験から語っている」点に尽きると思います。社会科学的な事実認定の客観性は、自分自身を除いた客観性であり、知的遊戯に陥りやすい所以です。学問的興味から過去の文献を研究したのでもなく、様々な学説を比較検討したのでもなく、○○学派・○○説・○○論に属しない部外者の本村氏の言葉は、その内容に関わらず、論壇の入口で拒否されます。従って、学問的な反論はなされません。

 本村氏が「常に法は未完であり完璧な判決はない」、「極刑を求めてきた者として判決を厳粛に受け止める」と述べている傍から、専門家が「司法は少年事件での厳罰化に舵を切った」、「死刑制度のあり方をきちんと議論すべきだ」と論評しているのを見ると、論理の明確性に格段の差があるように感じます。多くの刑事法の専門家の思い込みに反して、刑事裁判とは、本村氏の述べるシステムそのものです。有識者は、正解を選ぶ思考法に浸る反面として、答えのない問題には取り組めないのだと思います。

 この裁判に止まらず、刑事裁判が長期化する最大の理由を挙げるならば、まさに刑事訴訟法の要請であるところの「デュープロセス」がその原因です。13年間かかっても未だ「審理が不十分だ」と批判されるとき、それは15年や20年という具体的な数字を志向するものではなく、年数に上限はありません。そして、「デュープロセス」という単語の前には、本村氏がいかなる言葉を述べようとも、それはサンプルとして対象化され、その言葉の意味が受け止められることはないのだと思います。ここで見失われるものは、自分とは思想信条である以前に人生であり、死を含んでいるという現実です。

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