犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

地下鉄サリン事件を語り伝えることについて

2013-08-14 23:17:47 | 時間・生死・人生

高橋シズヱ著 『ここにいること 地下鉄サリン事件の遺族として』のコメントに対する回答です。)

 自分が生まれる前の出来事は、3年前も300年前も同じ時間軸の上にあり、その出来事を知らないことに対しては特権的な地位が保障されるものと思います。それにもかかわらず、自身がその場に居合わせていたように物事を捉え、ありありとした感覚を持つことは、歴史的な存在である人間の知性の究極的な形態ではないかとの感を持ちます。この地点においては、歴史認識をめぐる正義と不正義の争いも生じることがないはずだと思います。

 私は地下鉄サリン事件の現場にいたわけではなく、当日のニュースを見て驚いただけですので、正確には「事件を知らない」のほうに入ります。しかしながら、年を重ねるに従い、事件の時にはこの世に生まれていなかった方々の数が増えるにつれ、私自身が「事件を知らない」から「事件を知っている」のほうに分類されているように感じるようになりました。この妙な感覚は、ある出来事を後世まで語り伝えることの意義や、その難しさと関連しているようにも思います。

 抽象的な社会という視点から見ると、地下鉄サリン事件の当時に各界の識者が激しく議論し、日本社会の将来のために解決を目指した問題の多くは、解決を見ないままに解消してしまったとの感を持ちます。当時はスマートフォンどころか携帯電話も流布しておらず、ネットを巡る現代の様々な問題は影も形もありませんでした。また、当時は現在ほどグローバル化の弊害も実感されていない頃であり、その時点での問題提起と議論自体が、当時の未来(現在の現在)と合っていなかったのだと思います。

 地下鉄サリン事件の当時に地球上に生きていた多くの人が去り、事件を契機として激しく悩んだり考えを深めた人々の多くもこの世を去りました。入れ替わりにこの日本に誕生した者は、ゼロの状態からスタートすることになります。これは、ある日本人が一生を賭けて深めた頭脳が消滅し、またゼロからやり直しということですから、これは絶望的に虚しいことだと思います。私は少なくとも、「社会の変化」「人類は学んだ」など、社会や人類を主語にして語ることには慎重でなければならないと思いますし、「変化」や「未来」といった単語を簡単に希望の側に結び付けてはならないと感じています。

 この事件が現在では取り上げられないことの理由について、平成7年頃と現在を比較した私の個人的な実感ですが、社会がより明るさや楽しさを切望し、重さや暗さを拒絶する方向が顕在化したことが大きいように思います。もちろん、私の年齢が上がったことも影響しているのだと思いますが、社会問題に対して熱が冷める速さや、ニュースとしての旬が過ぎ去る早さなど、当時の比ではないと感じます。この軽い明るさは、物事を深く考えても答えが出ないことを知ってしまった多くの人々が、考えても仕方がないことは深く考えず、面白くないものには公然と不快感を表明するようになったことの表れだと思います。

 社会問題がますます複雑に絡み合い、解決されないままに問題が山積している現在の日本社会は、恐らく当時のような真剣さで地下鉄サリン事件に向き合うだけの体力を持たないと思います。これは、経済的な格差というよりも、社会の矛盾に目をつぶることのできない人間が競争社会の中で弱者となり、ますます住みにくい世の中になっている状況だと感じます。考えること自体の価値が軽視されればされるほど、実体のない形式としての「未来」が絶対的な正義の地位を得て、「過去」の価値が下がるのだとも感じます。

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