犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

文書と文章の違い

2008-02-28 01:31:27 | 言語・論理・構造
法律用語は難解であり、法律の文書は厳格である。それは客観的・一義的に明らかでなければならず、語るもののみを示さなければならない。そして、語らないものを示してはならない。法律の論理が、被告人側の構成要件該当性という形でしか犯罪現象を捉えられず、被害者を見落としてきたことの構造的な理由がここにある。もちろんいかなる法律家も人間であるから、1人の人間の心情としては、被害者にも理解を示しているのが通常である。しかしながら、このような厳格な文書で構築される閉鎖的な言語ゲームの中には、被害者は論理的に入ることができない。被害者の苦悩は逆説や反語により示されるしかないが、それは法律文書の厳格性と真っ向から対立するからである。これが文書と文章の違いである。

法律文書の厳格性は、和解契約書や示談書、念書といった文書において先鋭的に現れる。ここでは、①とにかく曖昧な表現を排除して書くこと、②できる限り期日や条件を明確にすること、③様々な事態を想定し、場合分けをして、どのような場合にどうするか書くことなどが至上命題とされている。これは、法律の知識がない一般人が書くのはなかなか難しい。ゆえに、専門家である法律家の腕の見せどころとなっている。和解条項に間違いがあっては逆に新たなトラブルの種を残してしまうので、法律家は一言一句に病的なほどの神経を使うことになる。契約書1枚の作成で数十万円もの報酬を得るのだから、穴が開くほど文字を読み返すのは当然と言えば当然であり、それがプロの自負ともなっている。

例えば、次のような和解契約があったとする。

第1項 甲は乙に対し、金30万円を次のとおり分割して支払う。平成20年1月31日から同年10月31日まで、毎月末日限り 金3万円。                                 
第2項 甲が前項の支払いを1回でも怠ったときは、甲は期限の利益を失い、残額を直ちに支払わなければならない。

一見すれば何の問題もない和解条項であるが、専門家の目を通してみれば、第2項の「支払いを1回でも怠ったときは」という部分に大きな欠陥が指摘されてしまう。甲が3万円を支払えない場合に、100円だけを支払って、これは「支払いを1回でも怠ったときにあたらない」と主張してくる可能性を排除できないからである。従って、厳密を期せば「支払いを1円でも怠ったときは」と書かなければならない。「支払いを1回でも怠った」と言えば当然3万円のことだろう、普通に社会生活を送っている人間であれば、当然にこのことを理解している。ところが、穴をふさぐことに躍起になり、無限に生じる屁理屈の可能性を事前に封じようとすると、人間はどういうわけか穴の可能性が気になって仕方がなくなる。これが部分的言語ゲームの網の目が無限に細かくなるという恐ろしさであり、一度始めてしまったものは止められなくなり、専門家集団が必要になるという例である。

被害者が法律家に自らの苦悩を切々と訴えても、何だか今一歩手応えがなく、法的な過失割合やらお金の話ばかりされて帰ってきた、このような体験談を聞くことが多い。これは専門性の負の面であり、医師が患者の話を聞かずに薬だけ出す構造とも似ている。厳格な法律文書を作ることを仕事としている限り、その文法で処理できない話を1人の人間として聞くことは、どうしても仕事の障害となる。法律家が客観的に明確な示談書の作成に神経を使っている場面においては、被害者による苦しい心情の吐露は、単に非本質的な周辺部分の話であると位置づけられる。また、加害者が心底から反省して謝罪の弁を述べたとしても、これも本筋と関係がなく重要性がない話だと位置づけられる。これが被害者の見落としの構造であり、現在も根本的には変わっていない。

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