犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

山形大生死亡 損害賠償訴訟

2012-08-27 00:04:06 | 言語・論理・構造

8月24日 毎日新聞より
「山形大生死亡: 母『救急車来ていれば』」

 昨年11月、山形大理学部2年の大久保祐映さん(当時19歳)が山形市の自宅アパートで遺体で見つかった。祐映さんは発見の9日前、体調不良で自ら119番していたが、市消防本部はタクシーを勧め、救急車は来なかった。全国的に救急出動が激増する中で、救急の現場は患者の緊急度の判定という重い役割を担わされ、市に損害賠償を求め提訴した母親は「なぜ来てくれなかったのか」という問いを繰り返す。

 祐映さんは埼玉県熊谷市で生まれた長男。両親は幼い頃に離婚し、母親が女手一つで育てた。弱音を吐かず、優しい子供だった。生物学に興味を持ち、中学3年の頃には「将来は研究者か理科の教員に」と夢を語った。医師の所見では「病死の疑い」としか分からなかった。死亡したのは119番の翌日ごろという。「なぜ救急車は来てくれなかったの」。翌10日、119番の音声記録を山形市に開示請求した。

 「運が悪かった」と納得しようと努力もした。だが「もし救急車が来ていれば」との思いが消えない。今年6月、「死んだのは救急車が来なかったから」と市に1000万円の賠償を求め提訴した。母親は新盆を終え、訴訟に臨む。「祐映のような思いをする人が二度と現れないよう救急体制のあり方を見直してほしい」。


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 このような裁判の記事を読む際に私が必ず感じることは、政治経済その他のニュースに比して、あるフィルターが掛かっているということです。それは、語りたいことの核心が言語にならず、それゆえに記者及び読者と被害者の家族は対等ではなく、語った言葉に騙されているような感じを受けるということです。人は、起きた出来事を理解して整理するため、必ず理由をつけようとします。しかしながら、語れないことは語れません。

 言葉が語ることは嘘であり、沈黙が語らずに示すところを見ようとしない限り、その報道を聞く者は単に「都合の良い理屈に飛びつく」状態になるものと思います。こうなってしまうと、物事はそのようにしか見えなくなります。言語によって構成される法律、そして言語によって運営される裁判も同様です。現在の社会が用意する裁判という制度を利用するしかないことによる二次的被害は、このような部分から発生しているものと思います。

 このような事故や裁判の報道では、次の4つの要素がテンプレート化しており、もはや語れないことは強引に語り得る形にするよう決まっているものと思います。
 (1) 亡くなった人を褒める。生前の人柄や将来の夢。事件の悲劇性。
 (2) 起こった事実を隠さずに明らかにして欲しいという家族の願い。
 (3) 二度と同じことが起きないよう、死を無駄にしないことの意義。
 (4) 社会問題としての原因の探求。構造の分析。裁判の勝敗の予測。

 そして、このような形に変形された家族の思いは、匿名のネットにおいて、「裁判に訴えること」が嫌いな人々から以下のような罵詈雑言を浴びるのが実情だと思います。
 (1) 死んだ人の夢に何の意味があるのか。聞かされるだけ不愉快である。
 (2) 何でも他人のせいにして訴えるのはモラルの低下、クレーマーである。
 (3) 起きたことは変えられない。逆恨みせず、前向きに生きたほうがいい。
 (4) 金が目的としか考えられない。命を金に替えるな。恐らく敗訴である。

 また、被告側の現場の実情を知る者からは、裁判に訴えられたことに対する以下のような非難の声が上がり、それが表に出てしまうのも匿名のネットの弊害だと思います。
 (1) 事件と無関係の感情論は誤りを誘発する。こちらを悪者扱いするな。
 (2) 訴えられる危険があれば、現場は萎縮する。それで困るのは国民だ。
 (3) 二度と起きないということはあり得ない。リスク管理の問題である。
 (4) 個人的な恨みのために裁判を使うな。弁護士が煽っているはずだ。

 これらの(1)~(4)の非難を受ける二次的被害は、もともとのテンプレートである(1)~(4)が苦し紛れの整理ないし理由付けのため、的を外しています。そして、的外れであるがゆえに、このような言葉をぶつけられる二次的被害の不条理は破壊的だと思います。

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