犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

東日本大震災の保育所の裁判について その4

2014-03-27 22:25:38 | 国家・政治・刑罰

 被災地における一連の民事訴訟に対して、被災地の外の平均的な国民の目はあまり好意的ではないと感じます。「人の命をお金に変えるのか」「裁判沙汰にしても死んだ人が喜ばない」「死者でなく遺族のための裁判ではないか」といった感想を耳にすることもありますが、そのすべてが的を全く外しているとも思いません。もともと裁判のニュースは気分のよいものではなく、多くの人間の平衡感覚による心の動きはこんなものではないかと、私の心には一種の諦めがあります。

 法制度が用意する民事訴訟のシステムに最も親和性があるのは、富と名誉と成功をめぐる仁義なき争いの場面であり、金銭欲や物欲の調整の機能だと思います。裁判所は、いかなる種類の訴訟が提起された場合であっても、システムが予定する争いの形に当事者を引き込みます。その結果として、千差万別であるはずの当事者の行動は、ステレオタイプのそれに押し込まれます。いつの間にか「原告」は「原告」らしく、テンプレート通りの行動を取っているということです。

 この種の訴訟に対する評価として、現場を見てきた者として完全に的を外していると感じるのが、「お金が欲しくて訴えるクレーマー」というものです。お金が目的なのであれば、このような訴訟を起こすことはあり得ません。絶対に勝てる保証がないどころか、負ける確率が高いと説明され、勝っても負けても失われた命は戻らず、しかも負ければさらに絶望を深めるような裁判を、高い弁護士費用を支払って進めることはありません。損得の経済の論理で言えば、損ばかりです。

(続きます。)


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