犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

光市母子殺害事件・最高裁判決 その5

2012-02-27 23:12:44 | 国家・政治・刑罰

本村洋氏の会見より

 「今までのような被害者の数を基準に、3人以上だったら死刑、2人だったら無期懲役というように機械的な判例主義ではなくて、一つの事件、一つの被告をしっかり見て、反省しているか、社会に出て再犯しないかをしっかり見極めた上での判決だったということで、非常に良かったと思う。」

 「今回の事件については年齢よりも、反省の情(があるか)を13年間、裁判所は見てきた。反省して社会復帰できると裁判官が認めれば、死刑は回避できたはず。年齢だけではなく、情状面をしっかり見ることが大事だと思う。」

 「殺意の否認は非常に残念だが、逆風の中で熱心に弁護されたことは立派なことだと思う。被告にとっても、最後まで自分の命を助けようと足を運ぶ弁護士と接することで感謝の気持ちが芽生え、反省の一歩になる。弁護のテクニックなどでいかがかと思うことはあったが、弁護士の役割を果たされたと思う。」

 「この判決に勝者なんていない。犯罪が起こった時点で、みんな敗者だと思う。社会から人が減るし、多くの人が悩むし、血税を使って裁判が行われる。結局得られるものはマイナスのものが多い。そういった中から、マイナスのものを社会から排除することが大事で、結果として、妻と娘の命が今後の役に立てればと思う。そのためにできることをやってきたということを(亡くなった2人に)伝えたい。」


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 判決の後、私の周りの弁護士が何人か感想を語っているのを聞きましたが、その内容はだいたい一致していました。大月被告が死刑判決を受けたのは完全に弁護団の作戦ミスであり、自滅の黒星であり、本来死刑になる必要のない者が死刑になったというものです。これは、専門家の職業的判断としては、実に真っ当だと思います。しかしながら、「判決をしっかり受け止め、罪を見つめ、堂々と刑を受け入れてもらいたい」という本村氏の言葉と比較すると、殺人や死刑を扱う刑事裁判の峻厳さを語るに際し、1人の人間の言葉としての格の低さが目立つように思います。

 私が何人かの弁護士の感想を聞いたところでは、今回の弁護団の最大の過ちは、大月被告が友人に宛てた手紙がマスコミに漏れてしまった点だとのことです。「被害者さんのことですやろ? ありゃー調子づいてると思うとりました」、「犬がある日かわいい犬と出合った。そのままやっちゃった。これは罪でしょうか」、「無期はほぼキマリで、7年そこそこで地上にひょっこり芽を出す」といった内容の手紙です。弁護士の職業倫理からすれば、何よりも問題なのは手紙の流出を防げなかった脇の甘さであって、大月被告が自分の犯した罪を受け止めていなかったということではありません。この点も、本村氏が中心を射抜いている罪と罰の論理と比べると、かなり格が落ちると思います。

 本村氏は、「この判決に勝者なんていない」と述べていますが、勝訴と敗訴の土俵の中で戦っている弁護士において、この言葉の意味を受け止めることは非常に困難と思います。民事と刑事とを問わず、弁護士は事件の筋を読み、落としどころを探ります。そして、勝ち筋の事件を失ったり、負け筋の事件の傷を深くすることは、弁護過誤の誹りを免れないばかりか、職業人としての誇りを傷つけられることになります。その意味では、刑事弁護の論理に従う限り、本村氏が何を述べようとも、弁護団は敗者を自認し、巨大な黒星を自ら背負うことになるものと思います。

 本村氏が会見で述べた言葉は、被害者と被告人の双方の人命を扱う刑事裁判に対する哲学的洞察を示しており、刑事弁護の方法論を真摯に探究するならば、これを知った上で見逃すことはできないはずだと思います。しかしながら、刑事弁護の業界の議論では、本村氏の言葉はまともに取り上げられることがなく、「遺族の処罰感情は峻烈である」とのステレオタイプの評価がなされるのみです。本村氏は、死刑判決の結論は大月被告自身の中にあるという当たり前の論理を述べているに過ぎませんが、刑事弁護の理論はこの論理を認めず、本村氏を勝者の地位に置くものと思います。

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