犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

東日本大震災の保育所の裁判について その6

2014-03-29 22:31:15 | 国家・政治・刑罰

 人は誰しも、本当の絶望のときには一切の言葉もなく、涙も出ず、一切の感情が表に出ず、心が空洞化した状態になるのが必定と思います。ここから「裁判を起こさなければならない」という結論が出ることを了解するためには、そのような心の空洞化状態であるということが共通了解事項となっていなければなりません。しかし、法律の理論に精通している優秀な方々ほど、このような必然性を政治的な主張として捉えることが多く、私は返ってくる答えに落胆させられることがよくありました。

 人生の最大の問題として、その「何か」をする以上に重要なことはないとき、それは自分の人生だけでなく、全ての人の人生において重要です。これは、中身の詰まった人間は自己に執着するのに対し、人間の形をした抜け殻となることを強いられた者は普遍しか思考できないという逆説だと思います。論理的に、その「何か」をしないでは先に進めないとき、その他の些事に時間を費やす意味はありません。これは、いわゆる「戦い」ではなく、戦う相手などわからないものだと思います。

 私が経験した範囲内での結論ですが、一切の言葉を失った中から拾い集めた結果として形になった言葉は、「真実を知りたい」「社会に問題提起したい」という部分に集約されるものと思います。これは、「腹いせに怒りをぶつけたい」「お金がほしい」という要求とは対極的であり、「なぜ人生にはこのような出来事が起きるのか」「人はなぜ苦しくても生きなければならないのか」という哲学的な問いそのものであり、特定の人の死ではなく、普遍的な人の生死が問題とされていると思います。

 「死を無駄にしたくない」というのは、人の生命が何かの手段とされてはならないという当たり前の原則の各論であり、ここでは真実のみが求められ、嘘を知っても意味がありません。無駄にできないのは死の事実だけではなく、生まれて生きて存在したというその一生の明確な形のことであり、生きている者は死者には絶対に敵わないものと思います。本来、法律家にできることは、その「何か」をしなければならないという言葉を「何か」で止め、その先を問わないことだと感じています。

(続きます。)

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