犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

死から逆照射されない思想 その3

2007-12-22 17:03:56 | 時間・生死・人生
近代刑法が想定する人間のモデルは、「合理的で理性的な人間」であった。自立した個人が理性と主体性をもって社会を形成してゆくとの理想的なモデルである。そこでは現在を見ずに未来を先取りし、無意識よりも意識を優位に置く。このような近代の理想的人間像に隠された欺瞞と弊害については、さまざまな哲学者によって徹底的に暴かれてきた。その急先鋒がハイデガーである。しかしながら、憲法を頂点とする現実の法治国家は、この近代の理想的人間像を大前提としている。そして、犯罪被害の問題についても、無理にそのパラダイムに閉じ込めようとして、数々の歪みを生んできた。犯罪被害者の声はその歪みの効果であるから、それを更に同じパラダイムに閉じ込めようとしても、同じ苦しみが繰り返されるだけである。

客観的な刑法理論からすれば、福岡市の飲酒運転追突事故の今林大被告の行った行為は、刑法208条の2(危険運転致死罪)に該当するか否かだけが問題である。以上、終わり。法治国家に生きる合理的で理性的な人間は、この真実を理解しなければならない。自立した個人が理性と主体性をもって社会を形成してゆく近代社会では、遺族の感情に流されて条文を拡大解釈することは許されない。かくして、今林被告とその弁護人の防御活動は、完璧なロジックによって正当化される。しかし、一歩外に出て、無意識よりも意識を優位に置く近代の理想的人間像を疑ってみれば、このロジックも簡単に崩れてゆく。この素材を提供するのがハイデガーであり、具体的な哲学者の名など知らなくても自然にその哲学を実行してしまっている被害者遺族の声である。

人間の無意識の根底には、死への恐怖がある。従って、ハイデガーの言葉を借りれば、死から逆照射されない思想は地に足が着いていない。このような存在者である人間が、48歳での出所と30歳での出所との選択肢を提示されれば、ほぼ間違いなく30歳での出所を選ぶ。その意味では、飲酒運転とその後の証拠隠滅行為を除けば、今林被告だけが特別に非倫理的だというわけでもない。裁判システム全体が、人間に非倫理的な行動を採るような誘惑を提供しているということである。近代刑法の理論は、理屈を丹念に積み重ねて、刑事被告人の人権を正当化する。しかし、どんなに理屈を積み重ねても、人間は1分1秒死に近づく存在であり、理性や意識の根底には無意識の恐怖がある。

今林被告や弁護人の言動の1つ1つが人間の倫理観を逆撫でするのは、この恐るべき存在の構造によるものである。どんなに崇高な理論も、その元を正せば、「刑務所から1日でも早く出たい」、さらには「死ぬのが怖い」という1点につながっているからである。そして、それを客観的な法理論によって隠そうとするからである。今林被告には、幼い兄妹3人の時間と将来を奪った以上、せめて7年半ではなく、25年は刑務所に入ってほしい。これは倫理的な直観である。長く刑務所に閉じ込めればそれでいいのか。それで問題は解決するのか。もちろん解決などしない。しかしながら、人間の倫理的な直観は、3人の死の前には、なぜか7年半を短いと感じる。これも理由を付けようとすればするだけ野暮である。その意味で、国家権力の発動の謙抑性のみを根拠に厳罰化に反対する人権論は、死すべき人間の繊細な生命倫理の存在に気付いていない。

人間が内的倫理によって完結しているのであれば、そもそも外的強制である法律など要らない。にもかかわらず、この世に厳しい法律が必要であるのは、危険だとわかっていながら飲酒運転をし、さらには水を飲んで証拠隠滅を図ろうとし、友人に身代わり出頭を頼むような人間がいるからである。このような犯罪者が目の前にいる限り、この世の倫理は次善の策として厳罰化を要求する。従って、この倫理の問題を措いたまま、厳罰化だけに反対したところで人間の割り切れなさは消えない。これは人間が倫理を突き詰めれば必ず突き当たる地点である。法律を知らない素人の戯言ではなく、生きて死ぬ人間の中核である。その意味では、「厳罰化の是非」というテーマを設定し、賛成論と反対論を対立させているのは、問題をわざわざ難しくしているようなものである。

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