犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

韓国旅客船沈没事故について その1

2014-04-21 23:27:00 | 国家・政治・刑罰

 子を思う親の気持ちは万国共通であり、このような事故状況で人間の焦燥感やもどかしさが頂点に達することについては、日本と韓国の間に寸分の違いもないと思います。「必ず生きて帰って来ると信じている」という親の信念が純粋に否定できない点も全く同じです。また、人は死者となった瞬間にその内心が想像されなくなることや、必死の捜索に従事する者の使命感にはスポットが当たらないこと、行き場を失った数々の思いは責任者探しや美談に飛びつきやすいことなど、両国の間に差は全く存しないとの感を持ちます。

 ここ数年の日韓関係については周知のとおりですが、今回の厳しい事故に接して1人の人間として心を痛めない日本人がいるならば、それは正当な愛国者でも保守派でもないと思います。嫌韓の流れで韓国政府や船長のみを非難し、修学旅行生を被害者の地位に置くことは簡単ですが、この事故についてのみ善悪の線を引き直すことは、あまりにご都合主義だと感じます。現に、亡くなった修学旅行生の中にも反日の生徒は多くいたでしょうし、逆に嫌韓の感情は韓国国民に一人残らず向けられるはずのものだからです。

 日本で愛国心を語ればあらぬ議論に引っ張られますが、人が自らの国に対する親近感を持つことは至極自然のことと思います。人は誰しも生まれる国を選べない以上、あえて愛国心なるものを持つ必要もありませんが、逆に自分の帰属する国を嫌悪して批判を浴びせることは、相当にひねくれた心情だと思うからです。日本と韓国を論じる場合にも、「A国」「B国」という匿名に置き換えて互換性がなければ、普遍性を欠くことは当然です。「ある国が一方的に別の国の右傾化を懸念する」という理屈の筋が通ることもないと思います。

 国は人間の集まりの別名にすぎず、人は極限の状態に置かれた時ほど普遍的な論理を自身の中に求める結果、国の違いなど無意味になるのだと思います。これは、「宇宙からは国境は見えない」「人類皆兄弟」といった面倒な話でもなく、理想の世界の建設に向けた希望でもなく、現に「国家」なるものは個人の脳内にしか存在しないという事実の表れだと思います。私は、「仲良くしようぜ」というプラカードからは偽善臭しか感じない者ですが、今回の事故の報に接して直観的に心が痛まない日本人は言語道断だと感じる者です。

(続きます。)

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