犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その48

2013-09-27 21:13:53 | 国家・政治・刑罰

 また別の先輩のイソ弁が、雑談の中で手紙のことに触れる。彼は実際にはこの刑事弁護の担当ではなく、事故の内容には全く興味を持っていない。ただ、保釈請求書などの書面の1枚目に弁護士の印鑑がずらっと押されていると迫力が出て、大弁護団という気がする。そのための要員であり、多数の弁護士が所属している事務所ではよく使う方法である。

 彼はその手紙を一文字も読んでいなかった。ただ、「全財産」という単語を聞きつけ、「何のための保険料なんだ」と憤慨していた。また、「常識があれば自動車保険の対人無制限のことを『無限』と勘違いしたわけではないだろう」と苦笑しつつ、「こっちが被害者の代理人ならばいくらでも勘違いしてもらって構わないのに」と残念がった。

 この件では、被害者の家族と保険会社との話が合わず、家族は後に別の弁護士に交渉を頼むことになった。先輩は、この弁護士のことをひどく羨ましがり、「どうやったらこういう事故の仕事が回ってくるのか」「被害者遺族の支援団体にでも入って顔を売っておかないといけないのか」と何度も言っていた。余程悔しかったようである。

 事故の犠牲者が若い男性ならば、平均余命・賃金のレベルが高いため、逸失利益が非常に高くなる。従って賠償額が莫大になり、パーセンテージの弁護士報酬も結構な額になる。しかも、支払うのは加害者ではなく保険会社であるため、報酬の取りはぐれがない。先輩の羨望の念は、死亡事故の損害賠償の案件を奪い合うこの業界内の感覚としては、至極平均的なものであった。

(フィクションです。続きます。)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。