犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

「客観的」と「他人事」

2008-09-07 10:00:37 | 言語・論理・構造
「私は自分自身は客観的に見ることができるんです。あなたとは違うんです」。先日の辞任表明の記者会見で、福田康夫首相が最後に述べた言葉が話題を呼んだ。年末の流行語大賞候補だとの声まで起きたそうである。ずっと客観的かつ冷静に会見を続けてきた福田首相が、なぜか最後になって気色ばみ、主観をあらわにして「客観的」と述べたことの面白さである。しかもその発言は、記者からの「総理の会見は他人事のように感じるという国民が多かった」という質問によって引き出されたものであった。「他人事」と言われて、思わず「客観的」だと反論する。しかも、それによって「自分の事」を言われて「主観的」になり、冷静さを失ってしまった。結局福田首相は、その記者の質問に正面から答えなかったようでもあり、むしろ裏側から答えたようでもあり、記者会見は険悪な空気の中で終わってしまった。一国の首相がこのような感情を国民の前に見せたのはなかなか珍しく、何とも言いようのない光景であった。

被害者の意見陳述制度と裁判員制度がほぼ同時期に始まることになり、法曹界では大きな懸念が表明されている。すなわち、客観的な第三者である裁判官の冷静な判断が損なわれてしまうのではないかとの懸念である。これは見事に当たっている。それゆえに、被害者の意見陳述制度と裁判員制度の意味がある。憲法37条は、刑事被告人に対し、公平な裁判所における裁判を受ける権利を保障している。これを受けて刑事訴訟法は、裁判所の公平・中立性を担保するために、起訴状一本主義、訴因制度、予断排除の原則などを定め、当事者主義を採用した。ここでは、人間の主観は誤りを犯しやすく、客観的真実の把握を誤りがちであるとのパラダイムが大前提となっている。そして、被害者は主観的かつ感情的であって誇張や歪曲を行いやすく、厳罰感情に振り回されて真実が語れず、裁判員は情にほだされてしまうのではないかとの批判が生じている。

ところが実際の問題は、この主観と客観の二元論自体の軋轢から起こっている。公平・中立な裁判所は、それによって国民の信頼を得るはずであったが、なぜかその公平・中立性が逆に不信を生んでいるからである。客観的な第三者である裁判官は、法律の条文を見て目の前の人間を見ない。これは「他人事」である。客観的な裁判所は、過去の判例を見て目の前の事件を見ない。これも「他人事」である。言い古された表現として、「もし自分のことだったら、もし自分の家族だったらと考えたことはありますか」という問いがある。裁判官は、この問いに答えてはいけない。答えるや否や、裁判官は客観的な第三者ではなくなり、裁判の公平・中立性を害してしまうからである。「客観的」と「他人事」とは、同じパラダイムの別の表現である。すなわち、肯定的に語られるときは「客観的」であり、否定的に語られるときは「他人事」である。どんな出来事であれ、本当のところは当事者にしかわからず、当事者でなければ語れない。客観性とは、このような主観が集まったところに反転的に生じるものである。人間は、どう頑張ってもこのようにしか存在することができない。

福田首相は、「他人事のように感じる」との質問をした記者に対して、「あなたとは違うんです」と迫った。この文法が成立するためには、福田首相と記者との「自分」が違っている必要がある。すなわち、福田首相にとっての自分は福田首相であり、記者にとっての自分は記者である必要がある。この大前提が成立していなければ、「他人事のように感じる」と言われて腹が立つ理由がないからである。そうなると、同じように、福田首相と記者との「他人」も違っている必要がある。すなわち、福田首相にとっての他人は記者であり、記者にとっての他人は福田首相である。かくして、客観的な視点を取ろうとすると、どちらも自分でどちらも他人であり、主観が客観で客観が主観だという妙な話になってしまう。福田首相が「自分自身を客観的に見ることができる」と言って冷静さを失い、主観的な怒りを表明せざるを得なかったのも尤もな話である。他人を客観的に見ているのではなく、自分を客観的に見ている以上、最後は自分に戻らざるを得ないからである。自分を客観的に見ることは難しいと言われるが、それよりも他人を主観的に見ることのほうがもっと難しい。

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