goo blog サービス終了のお知らせ 

犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

養老孟司著 『日本のリアル』より

2012-09-05 00:06:50 | 読書感想文

p.21~ 岩村暢子 「震災後、家族の絆は回復したか」より

 2011年は夏に、震災後の臨時調査をしました。新聞やテレビでは、しきりに「震災後家族の絆が見直された。そのため内食(家庭で食事をつくって食べること)が増えた」と言われていたので、それを確かめたかったのです。でも調べてみるとずいぶん違いました。

 外食は確かに一時的に減っていたけれど、それは外食というものが「出かけたついでに食べて帰る」「出かけていたから外で食べた」と外出に付随することが多いのに、「余震などが怖くて外出が減った」ためだった。また、内食になっていたのも「家族の絆」や「手づくり」を見直したわけではなかったのです。「計画停電」や「余震」があったためつくる気がしなくて、インスタントや出来合いが増え、食卓はむしろ簡単化していたのです。

 「家族の絆」についても、一般論としてはどの人も「家族の絆は大事」と語り、「(日本人は)今こそ見直した方がいい」と言うのに、「お宅ではどうですか」と問うと違った。「我が家には別に絆は必要ない」「ウチはこのままで特に見直すつもりはない」などと言う。直接被災された方々は全く違ったと思いますが、少なくとも私が調査した人たちは、メディアの語るようではなかったんです。


p.45~ 養老孟司 「ミーフェチ世代の登場」より

 そもそも実体としての「環境」など存在しません。本来、環境とは「自分の周り」のことであり、もっと正しく言えば「自分そのもの」なんです。江戸時代の人は誰も「環境」など語らなかったはずです。我々は土からもらったものを食べて、土に返している。だから田んぼは自分自身だし、田んぼを大事にするのは自分を大事にすることと同じでした。同時に、魚を食べるのは海を食べることでしたから、海も「環境」ではなく、自分自身でした。

 フランス革命において、「自由・平等・博愛」とわざわざ言葉で主張したのは、それがもともと「ないもの」だったからです。言葉にはそういうふうに「ないもの」を立てて存在させる機能もあるのですが、そこには怖さもあって、本来、存在しないものを、言葉を立てて、あるというふうにとらえてしまうと、まさかと思うようなところに「裏」が発生します。

 「環境」を立てた裏にできたのは、そこから切り離された「自己」です。本当は世界と自分はつながっていて当たり前なのに、「環境」と言った途端、「自己」が発生してしまう。政府が「環境省」をつくって自己を公認したとはそういうことです。


***************************************************

 東日本大震災の後、どこの誰が最初に「絆」と言い始めたのか知らないまま、むしろどこの誰が言い始めたのか知らないがゆえに、日本人はあの震災によって「絆」を見直したのだということになりました。このような場面では現実と願望を区別することもできず、日本人の誰が言っているのかを特定することもできず、一種の暴力によって事実が確定されていくように思います。

 言葉には「ないもの」を立てて存在させる機能がありますが、このような分析をしたところで、今や多勢に無勢だと思います。「絆」という言葉を聞きたくない、そのような言葉に傷つくという心の機微は、マスコミによる世論誘導の危険性の問題として取り上げられることもなく、個人の思想の自由の侵害の問題にすらなりません。善意による暴力を受けた者は、そのことを誰にも知られないまま、沈黙と忍耐を強いられるのだと思います。

「いじめ問題・この本を届けたい」より (2)

2012-09-02 23:49:47 | 読書感想文

(1)から続きます。

 いじめ問題の最前線で苦しんでいる方々が、この記事を読んで『14歳の君へ』に即効的な助けを求めたならば、恐らく見事に裏切られることと思います。そればかりか、現場の悲鳴や疲弊に対しては何の役にも立たない抽象論ばかりで、腹が立つというのが普通の反応ではないかと想像します。この本を手に取った14歳の中学生が次の日からいじめを止めるわけでもなく、いじめられている中学生がその苦しみから逃れられるわけでもないと思います。

 私も世間の荒波に連日揉まれ続け、形而上的な哲学の問いは目の前の具体的な問題解決にとって有害であることを嫌というほど知りました。それだけに、役に立たないことが役に立たないことである意味も知り抜くに至っています。すなわち、あらゆる問題について考えるのは自分でしかあり得ず、日常の仕事のその先には老いと死があるだけです。また、そのような人生において、「他人をいじめる」という行為は呆れるほど無意味で下らないものだと感じています。

 大津市の事件の裁判では、「教師が見て見ぬふりをした」との両親の訴えに対し、市側の弁護士が「誰が、いつ、どこで、どのようないじめを目撃し放置したか具体的に指摘していない」と反論したとの報道が反響を呼びました。裁判の現場ではよく聞かれる理屈であり、私も今やさほど驚かなくなっています。業界の風習に染まり、かなり善悪に鈍感になってしまったと感じます。近代的理性に基づく自律的個人が造り上げた法制度は、その生命尊重の論理によって人を死に追い詰めているのだと思います。


***************************************************

(参考)
アルベール・カミュ 『シジフォスの神話』 冒頭より

 真に深刻な哲学的問題はただ1つしかない。それは自殺である。人生が生きるに値するか否か。それは哲学の根本的な問いに答えることである。
 どうして『人生が生きるに値するか否か』という問いが他の問いよりも緊急であるか。そのわけを私なりに考えると、それはこの問いが行動にかかわるからである。私はかつて存在論的主張のために死んだ人のあることを知らない。
 不条理という言葉のあてはまるのは、この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死物狂いの願望が激しく鳴り響いていて、この両者がともに相対峙したままである状態についてなのだ。

「いじめ問題・この本を届けたい」より (1)

2012-09-01 23:53:53 | 読書感想文

朝日新聞 8月27日夕刊 
「いじめ問題・この本を届けたい 池田晶子著『14歳の君へ』」より

 大津市のいじめ事件のあと、この問題に悩む人たちに必要な本を届けたいと、出版社と取次大手が連携して既刊本を増刷したり新刊のように全国配本したりしている。2006年刊の「14歳の君へ どう考えどう生きるか」(池田晶子著、毎日新聞社)は6千部を増刷し累計15万9千部に。毎日新聞出版局の営業担当者が大津の事件後に再読し、「人生や幸福について根本から考える手がかりになる」と取次大手トーハンに再販本を持ちかけた。呼応する書店からの注文も順調で2千部以上になったという。


***************************************************

 いじめ自殺の問題は、「いじめ」と「自殺」の2つの要素を含んでおり、後者は「死」を語っています。ゆえに、人間の行為としては悪や負の側に分類されるいじめによって、別の人間に死をもたらしてしまったという衝撃は、因果関係の有無といった小理屈を超えた衝撃を生じるはずのものです。そして、「命とは何か」「死とは何か」という瞬間的な問いは、死を無駄にしてはならないという動機を生み、そこでは死者が死を選んだ直前の限界的な苦悩が議論の中心に置かれるものと思います。

 ところが、死者は不在であり、生きている者の日々の人生が積み重なると、死者は遠くなります。こうして、いじめ自殺の問題は、徐々に現世的な対処法の議論に移るのがいつもの流れだと思います。いじめている者にはそれを止めさせる方法を、いじめられている者には自分を守る方法を、現場の教師にはいじめを防いで生徒を救う方法を、それぞれ有識者が知恵を絞って訴えかけるということです。ここでは、先に正しい答えが出ており、あとに残されるのは方法論と技術論のみです。

 現世的な対処論が死者を不在とする事態に直面し、人が根本から考える手がかりを求めることは、自然な流れであると思います。哲学者の池田晶子氏がこの本で指摘している論理は単純です。人は誰しも自分の意志で生まれてきたわけではなく、「気がついたらこの地球上に生きていた」という形でしか存在できないということです。自分の命は自分が作ったものではなく、自分が生まれたことは自分の意志ではどうしようもできません。この不思議さの感覚を捉えないまま、「命の重さ」「命の尊さ」と語ったところで、言葉が滑るだけだということです。

 哲学的に見れば、「いじめ」と「自殺」の2つの要素を比したとき、前者が後者をもたらすという連関は言語道断だと思います。現世的な対処法の議論に収束するいじめ問題が、その日常生活を成立させている基本であるところの生死の問題を凌駕してしまえば、死者は政治的に利用されるのみです。人の生死という存在論は普遍性を帯びる以上、現世的な対処論の枠には収まりません。やはり、「死にたくない」という意志が「生きたくない」に反転してしまった極限的な苦悩を前にして慄然とするところが、思考の始まりだと思います。

中島敦著 『李陵・山月記』より(2)

2012-08-24 23:15:23 | 読書感想文

「李陵」 p.113~

 従来の史書はすべて、当代の者に既往をしらしめることが主眼となっていて、未来の者に当代を知らしめるためのものとしての用意があまりに欠けすぎているようである。要するに、司馬遷の欲するものは、在来の史には求めて得られなかった。どういう点で在来の史書があきたらぬかは、彼自身でも自ら欲するところを書上げてみてはじめて判然する底のものと思われた。

 彼の胸中にあるモヤモヤと鬱積したものを書き現わすことの要求のほうが、在来の史書に対する批判より先に立った。いや、彼の批判は、自ら新しいものを創るという形でしか現われないのである。自分が長い間頭の中で画いてきた構想が、史といえるものか、彼には自信はなかった。しかし、史といえてもいえなくても、とにかくそういうものが最も書かれなければならないものだ(世人にとって、後代にとって、なかんずく己自身にとって)という点については、自信があった。

 彼は「作る」ことを極度に警戒した。自分の仕事は「述べる」ことに尽きる。事実、彼は述べただけであった。しかしなんと生気溌剌たる述べ方であったか? 異常な想像的視覚を有った者でなければとうてい不能な記述であった。彼は、ときに「作る」ことを恐れるのあまり、すでに書いた部分を読み返してみて、それあるがために史上の人物が現実の人物のごとくに躍動すると思われる字句を削る。すると確かにその人物はハツラツたる呼吸を止める。これで、「作る」ことになる心配はないわけである。

 しかし、これでは項羽が項羽でなくなるではないか。項羽も始皇帝も楚の荘王もみな同じ人間になってしまう。違った人間を同じ人間として記述することが、何が「述べる」だ? 「述べる」とは、違った人間は違った人間として述べることではないか。そう考えてくると、やはり彼は削った字句をふたたび生かさないわけにはいかない。元どおりに直して、さて一読してみて、彼はやっと落ちつく。いや、彼ばかりではない。 そこにかかれた史上の人物が、項羽や樊會や范増が、みんなようやく安心してそれぞれの場所に落ちつくように思われる。


***************************************************

 歴史を「作る」ことを警戒しつつ、「述べる」ことのみに心を砕き、なおかつ「述べる」ことだけで終わらないという歴史への向き合い方は、非常に繊細かつ厳格であると感じます。過去に起きてしまった歴史は客観的には唯一絶対のはずであり、ゆえに後世の人々によって歴史の真実が探求されます。ところが、この種の真実が真実であったためしがなく、それが歴史というものに対する双極的な固定観念を生んでいるように思います。

 歴史を「作る」方向を貫徹すれば、自由主義史観と自虐史観の論争にみられるように、歴史認識を巡る妥協の余地がない対立が生じ、容易に収束し得なくなるものと思います。ここでは歴史の真実を探求する形が採られていますが、実際には真実が探求されているとは思えません。他方で、歴史を「述べる」方向に終始すれば、歴史の謎がミステリーとして楽しまれることとなり、やはり真実など探求されなくなるものと思います。後世の新発見によってその都度変わる歴史など、歴史の名で呼ばれるに値しないと感じます。

中島敦著 『李陵・山月記』より(1)

2012-08-23 23:37:18 | 読書感想文

「弟子」 p.55~

 大きな疑問が一つある。子供の時からの疑問なのだが、成人になっても老人になりかかっても未だに納得できないことに変りはない。それは、誰もが一向に怪しもうとしない事柄だ。邪が栄えて正が虐げられるという、ありきたりの事実についてである。此の事実にぶつかる毎に、子路は心からの悲憤を発しないではいられない。何故だ? 何故そうなのだ?

 悪は一時栄えても結局はその報いを受けると人は云う。成程そういう例もあるかも知れぬ。しかし、それも人間というものが結局は破滅に終るという一般的な場合の一例なのではないか。善人が究極の勝利を得たなどという例は、遠い昔は知らず、今の世では殆ど聞いたことさえ無い。何故だ? 何故だ? 大きな子供・子路にとって、こればかりは幾ら憤慨しても憤慨し足りないのだ。

 彼は地団駄を踏む思いで、天とは何だと考える。天は何を見ているのだ。其の様な運命を作り上げるのが天なら、自分は天に反抗しないではいられない。天は人間と獣との間に区別を設けないと同じく、善と悪との間にも差別を立てないのか。正とか邪とかは畢竟人間の間だけの仮の取決に過ぎないのか? 子路が此の問題で孔子の所へ聞きに行くと、何時も決まって人間の幸福というものの真の在り方に就いて説き聞かせられるだけだ。

 善をなすことの報いは、では結局、善をなしたという満足の外には無いのか? 師の前では一応納得したような気になるのだが、さて退いて独りなって考えて見ると、矢張どうしても釈然としない所が残る。そんな無理に解釈してみた揚句の幸福なんかでは承知できない。誰が見ても文句の無い、はっきりした形の善報が義人の上に来るのでなくては、どうしても面白くないのである。


***************************************************

 この小説は、孔門十哲(孔子の10人の弟子)の1人である子路(BC543年~BC481年)をモデルとしたものです。後世の者が歴史から何かを学ぶという場合、時代や地域が全く違うのであれば、その違いを前提として学ぶ材料を探すのが通例だと思います。そして、その中から類似性が見出されれば、何か新しい発見でもしたように驚かれますが、これは入口が逆だと思います。

 時代や地域や言語の違いを超えて、人間の内心は必ず言葉で構成されています。そして、確かに人間の内心がこのようなものである以上、後世の者が過去の人物に近づこうとすると、どうしても言葉によって拒まれます。人間の内心の言葉そのものは言語化できず、その外に出てきた言葉はすべて嘘を語っているからです。2500年前の人物の言葉から教訓を得ようとすれば、その嘘によって騙される以上、こちらも堂々と嘘をつくしかないと思います。

姜尚中著 『続・悩む力』より その2

2012-08-20 00:05:42 | 読書感想文

p.185~

 思えば、60数年前まで、日本の社会は戦争によって死と隣りあわせだったのです。なのに、ふと気づいてみれば、死からはるかに遠ざかって、世界有数の長寿社会になってしまいました。そして、死から遠ざかったために、同時に生の尊さもわからなくなってしまいました。

 私たちは普通、人生においていちばん重要なのは「未来」を考えることであり、「過去」を懐かしんだり過去にとらわれたりするのは後ろ向きだと考えがちです。そのため先のほうばかり目を向けてしまうのですが、人間にとって本当に尊いのは、実は未来ではなく過去ではないでしょうか。

 過去の蓄積だけがその人の人生であり、これに対して未来というのはまだ何もなされていない、ゼロの状態です。あくまでも、未来はまだないものであり、無にほかなりません。ですから、過去を大事にするということは、人生を大事にすることにほかならず、逆に、「可能性」だとか「夢」だとかいう言葉ばかり発して未来しか見ようとしないのは、人生に対して無責任な、あるいはただ不安を先送りしているだけの態度といえるかもしれません。

 「未来」へ、「未来」へ、私たちが先のほうばかりに目を向けたくなるのは、これもまた市場経済の特性ととてもマッチしています。市場経済においては、消費の新陳代謝を加速させるために、徹底的に未来だけが問題とされるからです。そこで、市場のなかにどっぷりと浸かっている私たちのほうも、思わぬうちにそのような市場の価値観に引っ張られてしまわざるをえないのです。


***************************************************

 東日本大震災で児童108名中70名が死亡した石巻市立大川小学校では、子供を亡くした親と、難を逃れた子供の親との救いがたい距離が顕在化しているとの報道を聞きました。当たり前のことと思います。大川小学校に限らず被災地全般、そして被災地に限らず連日の事件や事故が起きている全国各地に共通する現実であると思います。そして、このような解決不能の問題は、いつも国民的議論の盛り上がりとは無縁です。

 「未来」を論理的に突き詰めれば、未来のその先は死です。これは、過去の生に比べて不安定で不確実であり、得体の知れない概念です。しかし、震災後から連呼されていた「未来」は、そのような厳密な検討を経ておらず、単にその場しのぎの未来であったものと思います。多数派に属する者が通常の社会生活を営む際には、昔の出来事はどこかで区切りをつけて「終わったこと」「過去のこと」にしてくれないと、行動しにくいからです。そして、誰もが未来に希望を持って立ち直れば、その目的は表面上は達成されるものと思います。

 子供を失った親における唯一の望み、すなわち「生きてさえいてくれればいい」という願いは、「何をしても帰らない」という絶望と表裏一体であり、名誉・幸福・成功・出世といった観念と対立せざるを得ないものと思います。他方、現に生きている子供の人生は、幸福・成功といった観念からの絶え間ない挑発を受け、死者が不在となった世界で強制的に前に進まされることとなります。紙一重の差で反対方向の人生に向かってしまった両者が、わかり合える道理がないと思います。

 子供を亡くした親の側が採り得る姿勢は、話し相手を不快にさせないために殻を作り、演技をし、理解されないことは語らず、自身が絶望の底に突き落とされるのを防ぐことだと思います。これに対して、子供が難を逃れた親の側の罪悪感は長続きせず、これを不快感に転化させる途が保障されています。生き残った苦しみに比して、亡くした苦しみの質、期間及び規模は異次元であると思います。そして、震災後に叫ばれた「未来」は、それによって「終わったこと」との区別を明確にし、人々の間の距離を広げてきたのだと感じます。

姜尚中著 『続・悩む力』より その1

2012-08-19 23:46:04 | 読書感想文

p.148~

 海外、とくにキリスト教圏では、大きな災害などが起こったとき、各宗派が競ってそれについてのメッセージを出します。この災害は信仰の面から見て人間にとってこんな意味がある、といった意味づけを盛んに行うのです。

 ところが、東日本大震災についていうと、日本の宗教界では、その類の発言はほとんど行われませんでした。もちろん、キリスト教系や仏教系、神道やその他、さまざまな宗派、信仰者の集団が、復興に向けたボランティア活動などに目覚ましい働きをしました。しかし、大災害と多大な人命の喪失をどう宗教的に意味づけるのかという議論が、意図的に回避されたように思えます。

 一般的に、日本は無宗教な国民だといわれます。戦前・戦中に政治的イデオロギーを一種の宗教のように信仰した結果、手痛い敗北を喫したトラウマはとても大きいものでした。そのため、政治と宗教に対しては色をもたぬのがよいという教訓になり、ひいては何ごとに対しても無色透明であることが習い性のようになってしまったと思われます。

 だが、当然ながら、無色透明でないほうがよいときがあります。そのあたりの問題が、今回、「3・11」で露呈したのではないでしょうか。大震災や原発事故によってもたらされた夥しい数の人びとの死や自然の荒廃について、宗教的な立場からの何らかの意味づけがもっと語られるべきだったのではないでしょうか。


***************************************************

 「神も仏も存在しない」「もし神や仏が存在するのであればこんな出来事は起きない」という現場を前にして退散する宗教は、偽物だと思います。また、「これは神があなたに与えた試練である」と地獄の真ん中で叫んで袋叩きに遭わない宗教は、やはり偽物だと思います。人は絶句や沈黙によってしか真実を語れないのであれば、平時は能弁であったものが危機的な状況に陥ると口を噤むというのは、話が全く逆だと感じます。

 無宗教の国の宗教にできるはずだったことは、「希望」「未来」「立ち直り」「乗り越え」という言葉が一神教のような力を持ち始めたとき、「絶望」「過去」「立ち直れるはずがない」「乗り越えられるはずがない」という言葉を語ることであったと思います。日本の無宗教性は、多くの場合、無神論の裏返しとしての科学信仰、イデオロギー信仰、あるいは似非宗教の信仰による安住という形に収まっており、無宗教による虚無の狂気を生きている者は圧倒的少数であると感じます。

黒鉄ヒロシ著 『千思万考・天之巻』

2012-08-16 00:03:56 | 読書感想文

p.80~
 源頼朝の性格は総じて陰険ということで一致する。才能や功績はさて措き、異常とも言える頼朝の人格形成に、興味の専らは集まる。家族構成、家庭環境、幼児体験などが人格形成に影響することは常識だが、頼朝の経歴は全てに於いて異常の範疇にある。
 父母なし、家なし、財産なし、更に家来の一人だに持たぬ没落の身に、源氏の嫡流の血筋など逆に大弱点となりかねない。危険を察知する極限の観察力は磨きに磨かれただろうが、同時に猜疑心もヒトの百に倍する程にも暗く黒く育ったであろう。

p.94~
 敗戦後の昭和、そして平成と平和に呆けた時代を生きる我々は戦国武将をイメージする輪郭を随分と暖かく設定する嫌いがあるのではないか。当時を描く小説やドラマの中で、武将の口を借りて「我等、戦国の世を生きる者……」なんて科白を喋らせてくれるが、武将の一人として「戦国」などという言葉を書き遺してはいない。
 後の世の我々が振り返り過去完了として「嗚呼、戦国の世でありしかや」と字句を当てるのであって当時の彼等にしてみれば全体がどうであろうが知ったことではなく、生きるか死ぬか、殺すか殺されるかの現在進行形の瀬戸際に肩で息をしながら血刀を持って立っていたのだ。

p.178~
 強力なリーダーシップは、同量のパワーの後押しを必要とする。歴史上に出現した名君(明君)と暗君の数を比較してみると、パワーがマイナス側に作用したケースの方が圧倒的に多いことに気付かされる。
 独裁者の特質を簡単に言ってしまえば、トップ・ダウンの命令系統にある。何事を成すにもスピーディで歯切れも良いが、善良さを維持し続ける独裁は世界史にも見つからない。すべからく欲望にからめ取られ、エンディングは悲惨である。
 合議制が何を成すにも遅々として進まずまどろっこしいのは特質がボトム・アップであるからだ。待ち望む名君、今の時代のリーダーがコトを成さんと立ち上る際に、対立する意見や、摩擦を生じる集団が立ちはだからなければ、「改革」と呼ばなくて済む。

p.222~
 引き算やら足し算、掛け算、割り算を主観的に施されるところの、面白くて遊びの領域となる歴史がある。一方、学問的と言うのか、客観的な記述としての歴史がある。後者は認知され、確立する迄に時間がかかるようである。時の経過を味方にしなければ手に入らない。
 「国家」を、ひとつの人体に譬えてみると、「戦争」とは精神に異常を来したパニックの状態と言える。巨人に於ける、貴方と私と君と僕は、細胞のひとつになる。ヘンテコな指令を脳に出されても、細胞の単位では、如何ともし難い。多くの細胞は自己保身に汲々とする弱虫だ。


***************************************************

 歴史の年表を見れば一目瞭然ですが、人類の歴史は戦争の歴史です。平和な世が望ましいのであれば、何があっても黙って寝ていれば戦争は起こりませんが、そうなると正義が不正義に取って代わられてしまうわけで、「権利のための闘争」をせざるを得なくなるものと思います。正義は戦って勝ち取られなければならないことと、正しい平和をもたらすための戦争は同義です。ここで愚かなのは戦争ではなく、正義のほうだと思います。

 平和な世で比喩的に用いられる「○○戦争」の語は、歴史の年表に載る公式な戦争よりも、むしろ人が争いに巻き込まれざるを得ない状況を表わしているように思います。世の中には「戦争が大好きだ」という者が必ず一定数おり、それは不正義を打ち倒すという信念の裏付けを獲得することになります。他方で「戦争は嫌いだ」という者は争いを好まないか、あるいは反戦平和を価値として闘争する矛盾に陥るものと思います。

 平清盛は、今や源氏との覇権争いに負けた武将というよりも、視聴率戦争に負けた武将というイメージが強くなってしまったと思います。私自身、平清盛が命を懸けて戦っている心情には上手く入り込めませんが、視聴率の数字によって右往左往する関係者の心情には簡単に入り込めます。直接の利害関係のない者が、他人のランキングという争いの結果を見て楽しむのは、あまり品の良いものではないと思います。

ヘルマン・ヘッセ著 『デミアン』

2012-08-13 23:45:14 | 読書感想文

p.162~
 私はそのころ18歳くらいの並はずれた青年で、いろいろな点で早熟であったが、また別ないろいろな点ではきわめて遅れており、たよりなかった。ときどき自分をほかのものに比較すると、私はよく得意になり思いあがったが、卑屈にもしょげてしまうことも同様に珍しくなかった。私は自分をしばしば天才だと見なしたが、同時にしばしば半分きちがいだと見なすことがあった。私には同年輩の友だちの喜びや生活を共にすることができなかった。

p.169~
 われわれの見る事物は、われわれの内部にあるものと同一物だ。われわれが内部に持っているもの以外に現実はない。大多数の人々は、外部の物象を現実的と考え、内部の自己独得の世界をぜんぜん発言させないから、きわめて非現実的に生きている。それでも幸福ではありうる。しかし一度そうでない世界を知ったら、大多数の人々の道を進む気にはもうなれない。

p.215~
 しるしを持っている私たちが世間から奇妙だ、狂っている、危険だ、と思われたのも、もっともかもしれない。ほかの人々の努力や幸福探求が、その意見や理想や義務や生活や幸福を衆愚のそれにますます密接に結びつけることを目ざしていたのに反し、私たちの努力はいっそう完全な覚醒を目ざしていた。われわれ、しるしのあるものが、新しいもの、孤立したもの、来たるべきものへの自然の意志を表わしていたのに反し、ほかのものたちは固執の意志の中に生きていた。


***************************************************

 法学の理論においては、すべての法は憲法を頂点とした価値序列の中にあり、憲法の中にも価値序列があります。日本国憲法における頂点は、個人の尊厳と幸福追求権を定める13条であり、ここから演繹的に展開される論理は強固な体系を形成しています。そこでは、宗教については信教の自由に、哲学については学問の自由に回収されることになります。

 「世間の人々の幸福追求は、その意見や理想や義務や生活や幸福を衆愚のそれに結びつけることを目指す」といった分析は、憲法の体系からは厳しく拒絶されることと思います。「衆愚」などという物言いは個人の尊厳について正しく理解していない証拠だと批判されたうえ、その作品に対しては表現の自由・思想の自由の保障が与えられるのみだと思います。

 人の世の罪を裁いて罰を与える際に、憲法の体系の下にある刑法・刑事訴訟法による処理がなし得ることは、物事のある一面の部分のみであると思います。この一面とは、「外部の物象を現実的と考えることの非現実性」に依拠した部分です。ここでは、証拠から殺意を認定しようとして行き詰まったり、精神鑑定をしているうちに誰が何を探しているのか解らなくなる事態が避けられないものと思います。

鹿島田真希著 『冥土めぐり』

2012-08-10 00:07:37 | 読書感想文

p.48~

 物心つく頃には、すでに奈津子の希望と欲望は薄れていた。普通の女の子みたいに、アイドルになりたいとも思わなかった。母親みたいにスチュワーデスになりたいとも思わなかった。母親がそれを言っても、奈津子は自分に華々しい将来があるなどと、とても考えられなかった。

 奈津子はすっかりあきらめていた。なにもかもあきらめていた。そして自分の身に起こる、理不尽や不公平、不幸について、何故そんな目に自分が遭わなければならないのか、よく考えることもしなかった。なるべく見ないようにして生きた。それは直視しがたいことであり、もし見てしまったら、血すらも流れない、不健全な、致死の傷を負うことになると知っていたからだ。


p.52~

 彼は知らない。彼が漠然と考えている、すごい人間、すごい世界は、架空のものであるということを。確かに人生には、波があるのかもしれない。不幸があれば、幸せがあると思うのは健全な発想なのかもしれない。しかし、その波は、彼の満足いく形では訪れないだろう。その満ち潮が寄せた時の幸せというのは、彼の考える、すごい世界とやらの到来ではないのだ。彼にとっては、存在しないものに憧れる自分は正しくて、それになれないことが不正なのだ。


p.64~

 おそらくこれも美しいものなのだろうと、奈津子はその絵を見つめた。自分にとってはさほど美しい絵でもないが、きっと他の人にはそうなのだ。そう考えて、自分が感じていることは違うのだと言う当たり前のことに、いまさらながら思い至る。自分ではない、他の人が美しいというものを見て、癒されようとしていた自分は不自然だ。

 だけど周りの人がこれを美しいというのなら、それでも構わないと奈津子は思う。自分にとっていいものを今は追及する時ではない。美しいこと、正しいこと、そう言うことから少し離れて、休息してみたかった。今までは、そんな不自然な自分に、違和感を覚えながらも立ち止まることはなかった。とは言え、いつだって矛盾や理不尽について、語れる時を待ってもいたのだった。


***************************************************

 芥川賞が昔に比べてどうだとか、レベルがどうだとか、その辺の話はよくわかりません。 ただ、法律事務所で弁護士を相手に懸命に話して文章にしてもらっても全く救われない人が、小説家に話してその内容を文章にしてもらえれば、ある程度までは救われるだろうという気がします。また、小説家であれば、法律事務所での会話に30分でも同席すれば、あっという間に短編小説ができ上がってしまうだろうと思います。