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犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

本田靖春著 『誘拐』  その3

2012-10-10 21:10:56 | 読書感想文

p.90~(誘拐事件発生から半月後の場面です。)

 17日、村越家は吉展の満5歳の誕生日を迎えた。1年前の同じ日、一家揃って後楽園に遊びに出掛けたことを、豊子(母親)は思い出さないわけには行かなかった。その帰途、すぎ(祖母)は祝いに子供用の自転車を買った。「むらこし よしのぶ」と書かれた白いエナメルもそのままに、自転車は庭の片隅に残されている。

 日がたてばたつほど、母親は、わが子に降りかかった災厄が、どうにも納得出来ない。「一億人も人がいる中で、どうして――」。誘拐などというのは、お汁粉をこしらえようとしていたあのときまで、映画か小説でのことであった。「どうして、うちの子が――」。これが説明出来る人がいるというのであろうか。


p.318~(事件発生から2年3ヶ月後、遺体が発見される場面です。)

 小原保は、吉展の殺害を自供、遺体の隠し場所を略図に書いた。捜査員が現地に飛んだ。小原保犯行自供の報道に接した人々は、物見高い群衆となって、遺体捜索が行われている寺を取囲んだ。深夜の11時、現地から平塚に電話が入った。「ホトケさんが見つかりません」。

 あわてた平塚は、留置場に通じる階段をかけ下った。根も葉もない自供にのせられて醜態をさらす自分の姿が、かけ下る平塚の脳裡をちらとかすめた。「おい、とぼけるな。ホトケさんはどこへやったんだ」。平塚は、もう一度、寺の位置を確認して、現場へ向かった。未明に近く、吉展の遺体が見つかった。

 女の人たちの泣く声が、電話の向うから爆発的に聞こえてきた。村越家に私が着いたときには、母親の豊子さんは気を失って倒れていた。言葉もないのだ。いつもは気丈で冷静なおばあちゃんが、畳に泣き伏して顔を上げようとしない。


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 「怒りや憎しみからは何も生まれない」と言われる種類の厳罰感情とは、本来はそのような解りやすい負の感情ではなく、「一億人も人がいる中で、どうして――」という哲学的な問いであったものと思います。そして、これがステレオタイプの被害感情の型にはめ込まれるのは、その哲学的問いを説明できる人がこの世に存在しないからだと思います。

 人生はその人の身体から出ることができない以上、誰も答えられない哲学的問いを有してしまった者と有していない者との間には絶望的な懸隔があり、全身で絶望的に感じていない者には、この懸隔を乗り越える資格を持たないものと思います。自分は他人の人生を生きることができず、逆も同じであり、これが「自分」の形式だからです。ところが、現場でなく研究室で事件を起こす者は、ここを簡単に乗り越えているように感じます。

 最後の遺体発見の場面については、私は組織の中で生きる者として、「見つかってほしい」という希望や、「見つからなかったらどうしよう」という焦燥感が自分のこととして理解できます。2年3ヶ月の混迷を極めた捜査の終結による虚脱感、責任の所在を巡る精神の消耗、社会的な非難や組織の体面など、本田氏の迫真の筆致によって本当に胃が痛くなるような感を覚えます。

 これに対し、2年3ヶ月にわたり吉展ちゃんの帰りを待ち続けた家族の「間違えであってほしい」「どこかで生きているはずだ」という一縷の望みが断ち切られた瞬間の心情は、経験のない私において、上手く一緒に泣くことができません。「このような感じだ」という中心点を共有することがないからです。全身で絶望的に感じていない者における想像力の限界と、罪悪感を覚えるところです。

 このような場合、社会は「遺体が発見されて事件が解決することが正しい」という常識で動いており、「発見されることの絶望」という価値基準については、論理的に対応する術を持たないものと思います。ここにおいて、常識でないものは一段下に見られ、被害者に対する上から目線が成立するように感じます。そして、その実質は、人は本当の絶望を見ないようにし、目を逸らすということだと思います。

本田靖春著 『誘拐』  その2

2012-10-07 00:03:34 | 読書感想文

p.197~

 捜査の進展がはかばかしくないのに反比例して、社会の事件に対する関心は高まりを見せ、民間団体が続々と捜査協力の名乗りをあげた。贈られてきた千羽鶴の数々が、暗い結末を思って沈み込む村越家に、場違いの華やかな色彩を溢れさせた。それらによって、家族の心がいささかでも引き立てられることはなかったが、見知らぬ人々の善意に包まれている実感は彼らにはあった。同時に、その隙間から刺してくる悪意の針に耐えることも、村越家の人々は要求されたのである。

 いたずら電話は、春が過ぎ、夏が来て、秋になっても、一向に跡を絶たず、日に3、4回はきまって彼らの心を乱した。10月8日午前10時半のことである。「吉展ちゃんはおれが預っている。追って連絡するから、100万円を用意しておけ」という男からの電話が入った。その男は、逆探知による逮捕第1号として、記録に名をとどめることになった。父親が折角貯めた資産を蕩尽してしまい、その鬱憤をいたずら電話で晴らしたのだという。

 脅迫者は、自分を特定されない空間に置き、受動的な立場しか選べない相手を、思いのままにいたぶる。闇の中の存在である彼は、そういうとき、普段は決してあらわなさい奥深くひそめた残忍さを、海中の発光虫のように、隠微に解放させているに違いない。孫を奪われたすぎは、極限にまで打ちひしがれた人間を、それこそ水に落ちた犬でも叩くようにして、さらに打ちのめそうとするいわれのない憎悪の持ち主が、社会には少なからず潜んでいることも、心臓を刺されるようにして教えられたのである。

 脅迫者に次いで村越家の人々を苦しめたのは、もろもろの宗教の狂的な信心家たちであった。これが、入れかわり立ちかわり、押し掛けてくる。彼らを迎える側の弱点は、怒鳴って追い返すわけには行かないところにある。「無縁仏があって、これがたたっている。墓参りをしないことには、吉展は帰らない――」。そういうことを言われて信じたわけではないが、ことが生命にかかわっているだけに、放置しておくといつまでも心のひっかかりとなって残る。それを取り除くだけの目的で、つい腰を上げてしまうのである。こうして家族は、人間の弱さも知った。

 本部に寄せられた情報は、3か月間で約9500件に達していた。うち5540件が犯人を名指ししたものである、その中には、捜査協力が目的ではなく、明らかに他人の中傷、誹謗をくわだてたものが少なからず入っていた。自営者は同業者を、会社員は職場の同僚、上役を、ただ困らせるための目的で犯人として指名していた。嫉妬や憎悪の対象は、他人の範疇にとどまらず、妻が夫を、父が息子を、兄が弟を、といったように、家族、肉親にも及んでいた。


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 刑事政策学の文献において、犯罪被害に伴う二次的被害の実態については色々と列挙されていますが、私の知る限り、どれも迫真性に欠けているように思います。「社会全体で被害者をサポートすべきである」という目的は、詰まるところ、厳罰感情の緩和、犯人に対する恨みと憎しみからの解放という点につながっており、二次的被害に対応する加害者を明確には捉えていません。これに対し、小説家の筆力による迫真性のある記述を前にしてしまうと、「社会全体で被害者をサポートすべきである」と言って済ませるのも恥ずかしくなります。

 このノンフィクションは、隅々まで鬼気迫るリアリティを保っているだけに、捜査手法の技術や社会背景などの現代とのギャップが際立っており、そのことが古さを感じさせます。しかしながら、被害者が受ける二次的被害の構造の部分は、現代の状況と全く変わっておらず、手紙がネットになっただけだと感じます。匿名のネットによって、昔からある人間の業の深さが顕在化したのであれば、二次的被害も手の施しようがないレベルに上がっており、「厳罰よりも社会全体でのサポートこそが必要なのである」と言って済ませている場合ではないと思います。

本田靖春著 『誘拐』  その1

2012-10-05 23:34:44 | 読書感想文

 この本は、昭和38年に起きた「吉展ちゃん誘拐殺人事件」のノンフィクション小説です。下記は、身代金の受け渡しの際に、家族の願いで本物の札束が用いられたものの、犯人に札束だけを持ち去られて逃げられた場面の前後の部分です。


p.73~

 村越豊子(吉展ちゃんの母親)は鈴木警部補に、切り揃えた新聞紙の束ではなく、本物の1万円札50枚を犯人に渡すことについての同意を求めた。もし、犯人を取り逃してしまったとき、身代金が実は1円の値打ちもないただの紙切れだと知った彼は、吉展に危害を加えかねない。その事態だけは、母親として、どうしても避けなければならなかった。

 村越家では、すでに50万円を用意していたのである。50万円を他人が身代金と呼ぼうが、懸賞金と呼ぼうが、彼女にはどうでもよいことで、それを自身で考えてみたことはない。犯人であれ、世間の誰かであれ、無事な吉展を彼女の膝にもう一度戻してくれるのであれば、その人物に喜んで差し出すつもりの50万円なのである。


p.88~

 記者会見で玉村刑事部長は、犯人を取り逃がした事実を公式に認めた。だが、席上、失敗に至る責任は被害者側に求められるというニュアンスで経過をのべた。豊子がもっぱら犯人の要求する線で動いたため、捜査陣の態勢がととのわずに彼を取り逃がし、彼女の強い希望で偽の札束を現金にかえたため、渡さずにすんだはずの身代金を奪われてしまう結果になった、といわんばかりであった。

 こうした当局の責任回避が、マスコミの一部に無用な誤解を及ぼすことになる。各紙の中には、あたかも豊子が、捜査陣の指示に反して現金を持ち出し、その制止を振り切って飛び出して行ったかのような記述をし、犯人は彼女と意思を通じる男性でありかねないとの憶測を紹介するものがあった。これが火種となって、醜聞に深い関心を示す週刊誌が、豊子の実際にはありもしない異性関係に、もっぱら焦点をあてた記事を組んだ。


p.92~

 ふっくらしていた村越すぎ(吉展ちゃんの祖母)が、めっきり痩せた。朝から深夜まで、いたずら電話が絶えない。犯人がいつ、何をいってくるかわからないので、受話器をはずすわけにも行かず、ずっと睡眠不足なのである。もっとも、それがないとしても、眠れないことにかわりはないのかも知れない。表で、裏口で、物音がすると起きて行く。吉展が帰って来た、そういう気がしてならないからである。髪の毛の腰も全部抜けてしまった。

 豊子も無惨にやつれた。両目が腫れ上って、ついに新聞はおろかテレビまでもが見えなくなった。精神的苦痛が視力さえも奪ってしまうことを、彼女は自身を被験体として知ったのである。


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 刑事訴訟法において「警察と犯人の関係」は飽きるほど論じられ、刑事政策においては「犯人と被害者の関係」がそれなりに論じられています。これに対し、「警察と被害者の関係」を法律的に深く論じるものは、ほぼ皆無に等しいと思います。刑事訴訟法や刑事政策の範疇では、そもそも学問の形にならないようです。

 警察と被害者の信頼関係の崩れは、非常に繊細な心理状態を経るものと感じます。捜査が上手く行かないことによる警察官のもどかしさは、被害者に献身的であればあるほど、その報われなさによる息苦しさに転化するように思います。そして、捕まらない犯人に対する怒りは単純ですが、居ても立ってもいられない被害者との気持ちのすれ違いは複雑です。

 吉展ちゃん事件それ自体が、刑事訴訟法においては重要論点を含んでおらず、別件逮捕の論点のところで僅かに出てくるのみです。警察権力の濫用から犯人を守るという善悪の基準は明快です。これに対し、強制捜査の指揮を執る責任者の孤独といった切り口は、混沌として体系化できません。刑事訴訟法で飽きるほど論じられている「警察と犯人の関係」も、物事の一面に過ぎないと感じます。

白川静著 『孔子伝』

2012-10-02 00:09:33 | 読書感想文

p.19~
 体制の理論とされる儒教も、その出発点においては、やはり反体制の理論であった。しかい反体制の理論は、その目的とする社会が実現したとき、ただちに体制の理論に転化する。それが弁証法的運動というものであろう。儒教ははたして、本来どのような体質をもつものであったか。哲人としての孔子は、それにみずから答えようとはしない。

p.26~
 孔子はおそらく、名もない巫女の子として、早く孤児となり、卑賤のうちに成長したのであろう。そしてそのことが、人間についてはじめて深い凝視を寄せたこの偉大な哲人を生み出したのであろう。思想は富貴の身分から生まれるものではない。搾取と支配の生活は、あらゆる退廃をもたらすにすぎない。貧賤こそ、偉大な精神を生む土壌であった。

p.119~
 人はみな、所与の世界に生きる。その与えられた条件を、もし体制とよぶとすれば、人はその体制の中に生きるのである。体制に随順して生きることによって、充足がえられるならば、人は幸福であるかも知れない。しかし体制が、人間の可能性を抑圧する力としてはたらくとき、人はその体制を超えようとする。思想は、何らかの意味で変革を意図するところに生まれるものであるから、変革者は必ず思想家でなくてはならない。

p.182~
 批判は同じ次元での、自己分裂の運動とみてよい。それは自他を区別しながら、新しい我を形成する作用であるが、しかし果たして、人は真に自他を区別しうるであろうか。他と自己との全き認識ということはありうるのであろうか。それぞれの思想の根源にあるものを理解することは、それと同一化することになるのではないか。それゆえに批判は、一般に、他者を媒介としながらみずからをあらわすということに終る。

p.291~
 現実のうえでは、孔子はつねに敗北者であった。しかし現実の敗北者となることによって、孔子はそのイデアに近づくことができたのではないかと思う。社会的な成功は、一般にその可能性を限定し、ときには拒否するものである。思想が本来、敗北者のものであるというのは、その意味である。

p.304~
 孔子は最も狂者を愛した人である。「狂者は進みて取る」ものであり、「直なる者」である。邪悪なるものと闘うためには、一種の異常さを必要とするので、狂気こそが変革の原動力でありうる。あらゆる分野で、ノモス的なものに対抗するものは、この「狂」のほかにはないように思う。


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 白川静氏は、独学で独自の分野を切り開いた学者ですが、当時の主流の学者からは手厳しい批判を受け続け、ようやく評価され始めたのは最後の10年間ほどだそうです。

 アカデミズムによる権威主義は、後から見れば「権威を揺るがすオリジナリティの出現を恐れていた」と解釈できることでも、その時には単に「正しく理解していない自己流で勉強不足の理論を酷評する」という形を取るものと思います。絶対的な権威から酷評されつつ「正しくない理解」を貫徹することの苦悩の大きさを想像します。

東野圭吾著 『怪笑小説』より

2012-09-29 00:06:21 | 読書感想文

「逆転同窓会」より p.103~
(教師の同窓会に昔の生徒達がゲストとして呼ばれた場面です。)

 生徒たちの同窓会に教師が呼ばれるのと、元教師たちの集まりにかつての生徒が呼ばれるのとは本質的に違うのだ。生徒たちの同窓会は、現在に生きる仲間たちが、ふと昔を懐かしむために集まるのだ。いわば現在の中に、過去を持ち込むわけだ。そして「過去」の代表として教師が招かれる。だが今回の催しは、それとは逆だった。過去の中に現在を持ち込んでしまったのだ。

 教え子たちはその後もしばらく、経営が悪化している会社の事例などを中心に、ぼそぼそと会話を続けた。その間、元教師たちは黙って彼等のやりとりを聞いているだけだった。内容が把握できないし、言葉も知らないものばかりだった。元教師たちは、すっかり元気をなくしていた。この企画が失敗であることを認めざるをえなかった。自分たちは大変な勘違いをしていたと思った。


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 過去と未来が矛盾するところに現在が生じる、あるいは過去も未来も現在において存在するという哲学的思考は、時間が過去から未来に流れるという比喩とは相容れない部分があると思います。しかしながら、哲学研究者という肩書きではなく、人間としてその時間性の中に生きていれば、時間は過去から未来に流れるがゆえに、その不可解さに直面するという哲学的思考の生じ方があるように思います。

 「過ぎたことは過ぎたことではない」という直感や、「終わったことは終わったことではない」という切実感は、「時間とは何か」「過去はどこにあるのか」といった問題を外側から考える場合には生じようがないものです。過去は現在において存在することの説明に苦しむ者よりも、その自明の前提ゆえに「過去を過去にしたくない」と全身で感じる者のほうが、人間の時間性について自覚的なのだと思います。

内田樹著 『街場のメディア論』 より (1)

2012-09-26 23:33:45 | 読書感想文

p.94~
 
 「どうしてもこれだけは言っておきたい」という言葉は決して「暴走」したりはしません。暴走したくても、自分の生身の身体を「担保」に差し出しているから、制御がかかってしまう。真に個人的な言葉には制御がかかる。だって、外圧で潰されてしまったら、あるいは耳障りだからというので聴く人が耳を塞いでしまったら、もうその言葉はどこにも届かないからです。

 だから、ほんとうに「どうしても言っておきたいことがある」という人は、言葉を選ぶ。情理を尽くして賛同者を集めない限り、それを理解し、共感し、同意してくれる人はまだいないからです。自分がいなくても、自分が黙っても、誰かが自分の代わりに言ってくれるあてがあるなら、それは定義上「自分はどうしてもこれだけは言っておきたい言葉」ではない。「真に個人的な言葉」というのは、ここで語る機会を逸したら、ここで聞き届けられ機会を逸したら、もう誰にも届かず、空中に消えてしまう言葉のことです。そのような言葉だけが語るに値する、聴くに値する言葉だと僕は思います。

 逆から言えば、仮に自分が口を噤んでも、同じことを言う人間がいくらでもいる言葉については、人は語るに際して、それほど情理を尽くす必要がないということになる。言い方を誤っても、論理が破綻しても、言葉づかいが汚くても、どうせ誰かが同じようなことを言ってくれる言葉であれば、そんなことを気にする必要はない。「暴走する言説」というのは、そのような「誰でも言いそうな言葉」のことです。

 ネット上に氾濫する口汚い罵倒の言葉はその典型です。そこで行き交う言葉の特徴は、「個体識別できない」ということです。同じことがメディアの言葉についても言えると僕は思っています。メディアが急速に力を失っている理由は、固有名と、血の通った身体を持った個人の「どうしても言いたいこと」ではなく、「誰でも言いそうなこと」だけを選択的に語っているうちに、そのようなものなら存在しなくなっても誰も困らないという平明な事実に人々が気づいてしまった、そういうことではないかと思うのです。


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 テレビを見ていると、「語られるべき言葉が語られていない」という感じがしますが、それも慣れれば当たり前となるように思います。このような入口での微妙な違和感は、「語られるべき言葉」と何なのかを形にすることもできず、いつの間にか消えてしまうものです。また、メディアの特質として、視聴者に「自分のほうが世間からずれている」という焦りを生じさせる点も大きいと思います。

 一般の視聴者がテレビ番組に対して何を言っても批判だけであり、生産性がなく、「お前が代わりに番組を作れば視聴率が取れるのか」と言われれば退散するしかないと思います。そのような中でも、「語られるべき言葉が語られている」と感じることがありますが、これは理屈ではなく私の直観です。ネット上の言葉も同じことであり、玉石混交の中の貴重な玉を見つけたと感じるときには、氾濫する口汚い言葉のほうは眼中から排除される気がします。

古賀茂明著 『官僚の責任』

2012-09-22 23:28:00 | 読書感想文

p.120~「霞が関は人材の墓場」より

 国家公務員は国民の税金で生活しているのであり、その代わりとして、国民のために奉仕する義務がある。国民の生活を第一義に考えるべきなのは当然だ。そう考えれば、守るべきは公務員どうしで助け合うためのシステムであるわけがない。

 国家公務員採用試験に合格し、官僚になった当初は、ほとんどの人間が「国のために働く」という志を胸に抱いていたはずなのだ。若手官僚のなかには、まだまだやる気にあふれた優秀な人材がいるのは事実である。

 ところが、そういう官僚たちも、いつしか初心を忘れて、しだいに内向きになっていく。国益より省益を第一に考えるようになっていく。国家公務員試験という難関を突破した優秀なはずの人材が、いつしか国を食いつぶすだけの存在に堕していくのである。


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 私が以前に働いていたのは、いわゆる霞が関とは別の霞が関であり、私はただの木っ端役人でした。そんな組織であっても、郷に入って郷に従っているうちに、色々と感じることはあったように思います。「国家公務員は国民の税金で生活している」「国民のために奉仕する義務がある」といった言葉は、事あるごとに訓示のように聞かれ、私や同僚においても当然の規範として身に付けられていたと記憶しています。ところが、その職務倫理は、なぜかそのままの形で、公務員同士で助け合うためのシステムに直結していました。

 「国のために働く」という初心はいかにも青二才であり、組織人として現実に妥協することはやむを得ませんが、同時に「国民のために奉仕する義務がある」という原則は、多くの同僚において忘れられていなかったと思います。ところが、そのことがそのまま「国民のために奉仕する義務がある組織」の職務倫理を守ることになり、必然的に内向きになっていくという現実がありました。ここは言葉にすると微妙なところで、「国のために働く」という初心を忘れるという表現は不正確だと思います。

 1人の人間の人生というものは、誰しもこの体の中に閉じ込められており、大局観という錯覚を信じたふりをするのは非常に困難なことだと思います。鳥瞰的な視点が自身の体を突き抜け国家に至る場合には、組織で揉まれずにいわゆるセカイ系に至るか、あるいは組織に突き当たって屈折して国に至るか、両極端の思考に流されがちだと思います。

重松清著 『せんせい。』より

2012-09-18 23:47:11 | 読書感想文

p.86~ (保健室の先生と生徒の会話です)

 「先生、なんで最初にわかったんですか? わたしがみんなから意地悪されていること」
 「うーん?」
 「だって、わたし、なにも言ってなかったのに」
 先生は、「頭とおなかが同時に痛くなる子は、たいがいそうだよ」と言った。
 へえ、そういうものなんだ、とうなずくと、先生はベッドのほうを見て、つづけた。

 「あとね、あんたね、なんで意地悪っていうの? そういうときの言い方は知ってるでしょ、5年生なんだから」
 胸がどくんと鳴った。おろしたての白いシャツに、カレーとかラーメンのスープとかの染みが散ったとき、みたいに。
 いじめ ―― なんだ。わたしは、みんなからいじめられているんだ。
 鬼ごっこの鬼につかまった。ずっと必死に逃げてきたのに、追いつかれた。

 いじめは伝染病だ。しかも、かかった子ではなく、かからなかった子のほうが苦しめられる。サイテーの伝染病で、センプク期間も、何日で治るかも、特効薬も、なにもわからない。
 「意地悪されてるって思ってたほうがいいの?」
 「だって……」
 いじめに遭うのは、だめな子だと思っていた。弱くて、とろくて、負けてる子がいじめに遭う ―― だから、わたしじゃない。
 認めなさい、と言われたらどうしよう。あんたはほんとうな弱くて、とろくて、負けてるから、いじめに遭ってるんだよ、と言われたら、どうしよう。
 でも、先生はそれ以上はなにも言わなかった。


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 子供の世界と大人の世界の違いは、子供の論理と大人の論理の違いだと思います。大人の世界の決まりごととは、責任の所在を明らかにし、証拠に基づいて物事を判断し、事実と推測を分け、単語を定義してから議論し、不用意に謝罪せず、善意が仇になる危険に注意を払い、ある時には毅然とした態度を取り、ある時にはお金の力を借り、いたずらに話を大きくしないこと等です。もっとも、人々の自己主張が強くなり、クレーマー対応で疲弊するようになると、大人の世界の論理も幼児化を免れないものと思います。

 人間が社会に出るまでに教育が必要な理由は、どんなに大人の論理が幼児化しても、それは子供の論理とは一線を画していることの理由と同じだと思います。子供の論理は、非論理的であり、なおかつ複雑であり、他方でそれを語るだけの語彙が少なく、しかも繊細であり、大人の世界の論理とは正反対の性質を多く有しています。その上、大人は誰しも子供の時代を通っているにもかかわらず、なぜかその世界の決まりごとを忘れ、どうしても思い出せないという悩ましいことになっています。

 学校がいじめの事実を確認したかどうか、いじめと自殺の因果関係はあったのか、このような問題の定立は、大人の世界の論理を前提としたものです。子供の世界で起きている出来事を大人が解釈し、それを子供の世界の論理に適用しようとしても、例によって派生的な問題が生じるだけだと思います。証拠によって事実を確定し、法的な責任の所在を明らかにするというルールは、あくまでも集団的に生きる際の方便です。大人になる前に人生を終えた子供を前にした場合には、誰が何を言っているのか良くわからないと感じます。

池田晶子著 『あたりまえなことばかり』より

2012-09-16 23:24:30 | 読書感想文

p.198~

 人類における葬式・葬送の儀式とは、理解できないものとしての他者の死を、理解するための方策に他ならない。肉体の消滅をもって死とし、そこに文化的社会的なけじめを与えるのでなければ、われわれは、「その人は死んだ」と言うことが決してできない。なぜなら、死は存在せず、死は言葉としてしか存在していないからである。

 いつの世も、世界の事実に驚くのは常に子供である。子供は、他者の死という事実の意味が、わからない。必ずこう問うはずである。「おじいちゃんはどうしたの?」。賢しらな大人は答える。「死んだのよ」。しかし、これは答えになっていない。その「死んだ」ということの意味こそが、ここで問われているそのことだからである。

 「死ぬってどういうこと?」。なお問われて、大人はこう答えるかも知れない。「いなくなることよ」。むろん、これも答えにはなっていない。その、「いなくなる」とは、どういうことなのか。子供には、いた人がいなくなるということが不思議でたまらないのだ。「いなくなった」と言われて、次には必ずこう問うはずである。「今どこにいるの?」。

 肉体の消滅をもって死とするわれわれの方便が、無効になるのがここである。なるほど、その人の肉体は消滅したが、「その人そのもの」はどうなったのか。そう問われて、大人はもはや答える術を知らない。いなくなるということは無になるということなのよ、そう答えたくても、自分でも何を言っているのかよくわからない。そこで、苦しまぎれに、「お空にいるのよ」「天国にいるのよ」と答えてしまう。

 存在の事実に驚いた子供も、やがては賢しらな大人になり、人が死ぬということはどういうことなのか理解しているように思いこむに至るだろう。しかし、それがどういうことなのか、じつは全く理解していないにもかかわらず、「死んだ人はお空にいるのよ」という納得の仕方は、多くの人は大人になっても、基本的には変わってはいないのである。


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 仕事で骨肉の相続争いを数多く見ていると、そもそもの発端が、社会的儀礼であるところの葬儀に対する価値観の違いである場合が多いことに気がつきます。そして、お布施や香典といった具体的な対立点が出てしまえば、問題は行き着くとこまで行きます。

 「自分が死んだら葬式などしなくてもいい」といった遺言書があるばかりに、体面や世間体を重んじる親族の間で争いが起きる事例も目にします。骨肉の争いの不幸とは、「死とは何か」という哲学的問いから逃げる人間の幸福の一種なのではないかと感じることがあります。

橋下徹・堺屋太一著 『体制維新――大阪都』より

2012-09-12 00:02:26 | 読書感想文

p.74~ 橋下徹「体制の変更は政治家の使命」より

 僕は知事になったとき、現行の体制を変えることが使命だと考えました。それが政治家にとって、一番大事な役割と考えたのです。政策は専門家でもつくれる、むしろそのほうがいい政策が出てきます。行政を進めるのは役人。しかし、国であろうと地方であろうと、政治行政の仕組みすなわち体制、システムを変えるのは政治家にしかできません。

 体制の変更とは、既得権益を剥がしていくことです。いまの権力構造を変えて、権力の再配置をする。これはもう戦争です。新聞は、もっと話し合いをしろ、議論を尽くせと書きます。もちろん議論すべき問題は議論を尽くすべきだと思います。しかし権力の再配置に関しては、話し合いでは絶対に決着がつきません。

 議会についてもそうです。外から見ている有識者やテレビのコメンテーターの認識とは、大きなギャップがあります。有識者は議会を冷静な議論ができる場だと考えているようですが、大いなる誤解です。議会はいわば、選挙で勝ち残った武将の集まり。敵意や嫉妬はうずまき、人間の最もすさまじい闘争本能が凝縮した場なのです。

 まして権力の再配置の議論となれば、自分たちの既得権益に関わる話です。議会も役所も、敵意むきだしの負の感情がうずまくことになります。合理的判断をするのがむずかしくなり、議員も役人もひたすら現状維持がいいということになる。冷静な議論など、望むべくもありません。

 民主主義の政治にとって、話し合い、議論は大切ですが、最後は選挙によって決着をつけなければニッチもサッチもいかない、そういう局面がやってきます。僕は政策も大事だが、それよりも体制、システムの変革こそ政治の仕事と考えて、これまで知事の仕事をやってきました。


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 「体制」「装置」「システム」「仕組み」「構造」といった単語は、いずれも五感で認識できない抽象名詞です。そして、言葉は存在しないものを存在させてしまうという性質を痛いほど知り抜いているのは、その存在しないはずの幻想によって苦しめられてきた現場の最前線の人間であると思います。そこでは、言葉を動かすのも言葉であるとの洞察があり、この意味での言葉は断じて「議論」ではないとの経験則があるものと思います。

 憲法の統治機構は権力の暴走を抑制するためにあり、これによって個人の人権を守ることが目的であるとの立憲主義の大原則からすれば、橋下氏は「憲法の基礎もわかっていない独裁者」とされるのが当然の帰結です。そして、橋下氏に対するこのような批判は、それを主張する側からは問題点が噛み合っており、橋下氏の側からは問題点が噛み合っていないのだと思います。これは、「憲法」「統治機構」「権力」も抽象名詞であり、五感で認識できない幻想であることによります。

 情報化社会における政治家の好き嫌いの選別は、今や芸能人に対するそれに類似しているように感じます。ここに本来的なイデオロギーによる正義と不正義の概念が結び付けられれば、ある政治家を支持するかしないかは、生理的な細胞レベルにまで至るのではないかと思います。私は、政治の難しい話はよくわかりませんが、個人的に橋下氏は「好き」のほうに入っています。これは、橋下氏が光市母子殺害事件の弁護団に対する懲戒請求を呼びかけていたことに端を発しています。

 人は自分の狭い経験からものを考えるしかありませんが、私の忘れ難い経験として、同窓会で久しぶりに会った同級生の変貌ぶりがあります。議員になった同級生は、目つきや語り口が昔とは別人のようになっており、どこから見ても政治家でした。官庁に勤めた同級生は、人格が完全に変わっており、完璧な役人となっていました。このような強烈な記憶から、私は個人的に憲法学者が述べる「権力の抑制」よりも、橋下氏が述べる「権力の再配置」のほうに迫真性を感じています。