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犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

大野更紗著 『困ってるひと』

2012-11-25 22:21:18 | 読書感想文

(原因不明の難病を発症した女子大学院生のエッセイです。)

p.101~
 今思えば、あの病院は、わたしにいろんな大事なことを教えてくれた。重度の障害や、難病、あるいは精神疾患を抱えた人たちが、日本社会の中で、どういう扱いを受けているか。「現実」とは「矛盾」とは、何か。弱者にされるとは、どういうことか。研究室にいくら籠っていようが、一生、実感として学ぶことはなかっただろう。正直な気持ちを言えば、あの壮絶な環境をどうやって、誰も傷つけないように書けばいいのか、伝えればいいのか、わたしにはわからない。


p.139~
 一生、この先、病に怯えながら、苦痛に苛まれながら、耐えて、耐えて、なぜそうまでして、生きなければ、ならないのだろう。1月、2月、真冬。極寒。わたしの精神は、いったん、死を迎える。昨今、巷で大流行している「絶望」というのは、身体的苦痛のみがもたらすものでは、決してない。わたしという存在を取り巻くすべて、自分の身体、家族、友人、居住、カネ、仕事、学校、愛情、行政、国家。「社会」との、壮絶な蟻地獄、泥沼劇、アメイジングが、「絶望」「希望」を表裏一体でつくりだす。


p.142~
 ひとが、病や死に直面するというのは、ドラマや小説のようなものじゃない。瀕死の状態、手術中、そういった劇的な「瞬間」は、すぐに過ぎ去ってしまう。病に限らず、現実のものごとに「向き合う」という作業は、長く、苦しい、耐久デスマッチみたいなものだ。そして、その苦しみは、身体的苦痛だけがもたらすものではない。病の症状に耐えるだけで大変な患者を決定的に追いつめるのは、社会のしくみだったりする。患者にとってのデスマッチの相手、「モンスター」は、社会そのものだ。


p.231~
 思考は、完全に停止した。ただ、涙だけが流れた。とめどなく。夕食は、一切喉を通らなかった。薬も飲めなかった。何も話せなくなった。ベッドの上に寝そべっても、トイレに行っても、洗面台の鏡の前で手を洗っても、電気ポットからお湯をくんでも、ただ、涙が、ダムが決壊したかのように流れ続けた。身体の中の水分がなくなってしまうのではないかと思うほどに。最後の糸は切れて、私をつなぎとめるものは、なくなった。

 崖の淵で、すれすれで立っていた。そこで、何の因果か偶然、先生が私の背中を押した。突き落とされた「底」には、言葉も、感情もなかった。誰もいなかった。これが本当の絶望なんだと思った。これがひとの死だと思った。そこには、苦しみ以外に、何もなかった。生きる動機は、なかった。


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 サービス業においては、「困っている方がいらっしゃいましたら、お一人で悩まず、お気軽にご相談下さい」という宣伝文句が溢れています。そして、費用対効果が低いとなれば、相談を適当に切りあげて、上手いことお引き取りを願うのが通常だと思います。法や経済が作り上げた精緻なシステムは、本当に「困ってるひと」の前にはうろたえるばかりです。そして、多くの人が制度の限界を知りつつこれを避け続けてしまえば、社会は、人間を苦しめるための虚構になるのだと思います。

 人間は動物ですが、人間以外の動物は言語を話さず、人間のみが「痛い」という単語を持っています。ここで、身体の痛みは、極めて動物的なものだと思います。そして、言語によって思考する人間において、その言語の対極にある動物的なものが「痛み」だと思います。痛みを感じつつ言葉を失わない人間が、脳内を「痛い」という単語で占領されたとき、思考は停止します。これを言語で表現すると、「痛い!」だけだと思います。言語は、苦悩や絶望が極まれば極まるほどそれを語れず、身体の痛みはさらに切迫していることを思い知らされます。

 これに対し、世の中の痛くない人々によって冗舌に語られる言語は、なべて理屈っぽいものと思います。法的手続きに必要な膨大な書類が膨大であり、複雑な仕組みを構成する抽象概念の山が人々を苦しめていることは、手続民主主義の当然の帰結だろうと思います。外部からの不正や内部の不祥事に正面から対応しようとすれば、結果よりも手続上の公平性・透明性・参加性が求められ、「単に手続が遵守されていればよい」という自己目的化が避けられないからです。そして、人が全人生を賭けた苦痛を語る言葉の前に、抽象概念の束は無力だと思います。

木慶子著 『悲しみの乗り越え方』より

2012-11-22 00:02:11 | 読書感想文

p.86~ 「千の風になって」を拒む気持ち より

“秋は光になって畑にふりそそぐ 冬はダイヤのようにきらめく雪になる”
“朝は鳥になってあなたを目覚めさせる 夜は星になってあなたを見守る”

 秋になると日が短くなりますから、光になるというのは、とても貴重な存在になるということ。冬の雪はダイヤのようだというのも、美しく、嬉しくなるようなイメージです。鳥になって、星になってと、生きている人を見守ってくれる死者の存在を私たちに感じさせてくれます。

 ところが、私がグリーフケアで出会った遺族の方が、この歌を「嫌い!」と一蹴しました。「私の死んだ主人に、風になんかなってもらっては困るのよ! 千の風になっては、姿が見えないじゃない。鳥になっても嫌、光なんて嫌よ!」 そういって、腹を立てるのです。

 その方は、3人の方から「千の風になって」のCDを贈られたと言います。「グリーフケアにいい歌だと思われているのね。子どもが“これは死んだパパの歌ね”なんていうテレビ番組もあった。でも、私としては、主人は主人としてあの世にいるんだというイメージを一生懸命描こうとしているのに、こんなのに騙されたくないの!」

 実は、こういう人は1人や2人ではありませんでした。「“墓になんかいません”なんて言わないでください。私たちはお墓が拠り所なんです」「“死んでなんかいません”なんて言わないでください。死んでいなかったら、こんなに苦しみません」と、何十人という人からお小言を言われました。


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 『千の風になって』は、紅白歌合戦で平成18年~20年の3年連続で歌われ、いわゆる「国民の誰もが感動する歌」になりました。情報化社会においては、マスコミによって「良い」とされたものは、「嫌だ」という意見が出てくる余地がほとんどなくなります。その内容が嫌いであっても、押し付けられるということが嫌いであっても、「国民的に愛されている歌のどこが悪いのか理解できない」という空気の前には口を噤まざるを得なくなるものと思います。

 この歌が大ヒットしていた頃、朝日新聞社主催で、「千の風になったあなたへ贈る手紙」コンクールが行われていたことを思い出します。訳詞・作曲者であり選考委員長である新井満氏による選考基準には、「喪失の悲しみを乗り越えて元気に生きている現在が書かれていること」「感動があること」という項目がありました。私はこの部分を目にしたとき、何とも言えない強制力を感じ取ったことを覚えています。

 東日本大震災が起きた昨年、『千の風になって』が紅白歌合戦で歌われなかった理由について、現場でどのような話があったのか、部外者にはわかりません。しかしながら、震災直後から懸命の捜索活動が続き、家族は足を棒にして遺体安置場を回り、DNA鑑定による必死の身元確認が続き、なお3000人が行方不明である状況を前にして、「千の風になって吹きわたっている」ことは、あまりに感傷的であり、無神経であったのだと思います。

小池龍之介著 『考えない練習』

2012-11-17 23:20:52 | 読書感想文

p.194~

 実際のところ、困っている人にしてあげられる最も大事なことは、静かにしてあげることです。黙って話を聞いてあげることです。一方で、本人が苦しんでいるのに、それまでのすべてを肯定して、「あなたは何も悪くない」などと言うのは、その場しのぎの気休めでしかありません。欧米式のカウンセリング理論の下では、こうした全肯定のカウンセリングが行われることが多いようです。相談する方の一方的な安心感を得られるのは確かでしょうが、心の歪みはそのままですし、根本的な解決には至らないことでしょう。

 いずれにしても、困っている方の話を聞いてあげられるのなら、まだ良いでしょう。それすら多くの方はできずに、弱っている相手の話をよく聞かないうちから持論をとうとうと述べてしまうのです。困っている人を見ると、これは押しつけではなく人助けであると誤解し、反応してしまいます。自分は素晴らしいことをしているのだと自己錯覚して、抑制のストッパーが利かなくなってしまうのです。

 良い自分、優しい自分と思いたいがゆえになされる「優しさ」は、本人も無自覚であるがゆえに、しばしば押しつけがましいものになってしまうのです。誰かをかわいそうだと同情する時、それはたいてい優越感から来る感情ではないでしょうか。相手に対してかわいそうと思える自分に興奮し、「かわいそうと思っている自分は良い人である」というイメージに浸っているのかもしれません。


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 セクハラ・パワハラ・モラハラなどの精神的ストレスが労働問題として法律的に争われる場合、当人の疾患がなかなか改善しないばかりか、薬を増やされて薬漬けになってしまうという状況を目にします。医師やカウンセラーがプロであるが故に、それぞれのプライドや誇りがあり、「先生と患者」という力関係もあり、なおかつ医師やカウンセラーは法律問題については素人であるという点も関係していると思います。

 何週間も待たされて心療内科に行って話をしてみても、仕事の具体的なところはその会社のその場にいなければ解らないため、肝心なポイントが通じず、アドバイスが真に迫らないという話も聞きます。医師やカウンセラーとの相性が悪く、何か所もクリニックを変えているという話も耳にします。セクハラ・パワハラ・モラハラなどの行為は、それぞれの人生の根本的な部分をその瞬間に破壊するという点が本筋でありながら、当人の症状のほうから入ると、どれも「うつ病の診断書」と「薬の処方箋」になってしまうのだと思います。

 逆に、法律家のほうは精神医学について素人であり、精神的ストレスを労働問題として扱う場合、かなりピントが外れるように思います。社員が心療内科に通って治療しなければ「ストレスを放置して健康管理に務めなかった」という問題になり、通院を隠していれば今度はそのことが問題とされます。また、薬を飲んでいれば「業務に支障が出る」という問題になり、飲んでいなければやはり「業務に支障が出る」という問題が起こります。結局のところ、法律家のほうは証拠としての「うつ病の診断書」と「薬の処方箋」だけを求めていることが多いと感じます。

川上徹也著 『独裁者の最強スピーチ術』

2012-11-15 00:02:32 | 読書感想文

p.122~

 独裁者やカリスマになりたければ、聴衆の声が聞けるテレパシーを身につける必要がある。聴衆が一番聴きたいのは、自分が心の奥底で思っている言葉だ。心の奥底で思っているのだけれど、うまく自分で言語化できなかったり、口に出すのがはばかられるような言葉が聴きたいのだ。特に日頃から不満を抱え爆発しそうな状況になっている時、その効果は大きい。

 ヒトラーは、民衆の心の中にある「言いたいこと」「爆発しそうになっていること」「理想」を探しあて言語化することが天才と言えるほどにうまかった。ヒトラーはただ自分の思っていることを気ままに語ったのではない。ドイツ国民が心の奥底で思っている「願い」を語った。思っていながら、そんな「願い」はかなうわけないよな、と打ち消してしまうようなことを堂々と語った。


p.222~

 独裁者ヒトラーと橋下徹の演説・スピーチの手法には、共通する部分が多い。もちろん、それだけで「橋下が独裁者になる、ヒトラーになる危険性がある」というわけではない。もちろん時代が違う。そんなことが今の日本で本当にできるとは思わない。思わないけれども、頭の隅にはその懸念を常にもっておいた方がいい。たった1人の考えだけで、物事がすべて動いていくのは、危険であることは歴史が証明している。

 正直に告白しよう。私は橋下徹に期待している。大阪はもとより、日本の政治を少しでも変えてもらいたいと思っている。我々が政治家を評価する時、大切なのは「政策」でもないし、「実行力」でもない。彼や彼女が語る「言葉」なのだ。もし、橋下の政策や手法が気に入らないという政治家がいたら、ただ批判するだけではなく、対抗するだけの「言葉力」「スピーチ力」を身につけて、彼とは別の魅力的なストーリーを語ってほしいと思う。


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 橋下徹の演説とヒトラーの演説は似ていると言われます。ここから、橋下氏とヒトラーが似ているという推論がごく自然になされるのは、「言葉はその人そのものである」という言語の性質をよく表しているように思います。口が上手い、レトリックに長けているという評価は、通常は中身がないという評価を前提としています。しかしながら、これらは全く別の問題であり、中身があるかどうかは別に判定されるべき要素だと思います。むしろ、「口先だけだ」「騙されてはいけない」という警告それ自体に中身はないと思います。

 橋下氏とヒトラーの類似が語られる際には、「現在のところ民主主義よりも優れたシステムは発明されていない」ことを前提に、ヒトラーは民主的かつ合法的に独裁者となった事実が挙げられるのが通常だと思います。いわゆる「人類の苦い経験」と、なおかつ信じられるべき民主主義の可能性です。そして、民主主義は統治機構の原則論である以上、この話は必ず形式的になり、抽象論に流れ、庶民が日々苦しんでいる具体的な問題と乖離するように思います。これでは、橋下氏の演説に完敗するのは当然だと思います。

本村洋、宮崎哲弥、藤井誠二著 『光市母子殺害事件』 その3

2012-11-13 23:13:21 | 読書感想文

p.25~

藤井:
 死刑廃止運動に関わっている弁護士や学者らは、このところ犯罪被害者の声を理解するようなそぶりを見せていますが、実際は死刑廃止運動を邪魔する目障りな存在としか捉えていない気がします。

宮崎:
 もっと明け透けに言うとね、彼らは「本村さえいなければ、こんなことにならなかった」と絶対に思っている。「本村をはじめとする犯罪被害者の声がメディアに取り上げられなかったなら、死刑はすでに廃止段階に入り、被疑者・被告人・受刑者の人権はもっと手厚く保障されたはずだ」と。

本村:
 僕が検察と手を組んでいるように見えるわけですね。

藤井:
 本来なら犯罪被害者というのは、敵とか味方ではなくて、右も左も関係なく救済されるべき対象のはずなんです。けれども、それがイデオロギー闘争として、向こうから「敵」と看做されるようになってしまった。それは死刑に反対している人々が左翼的な運動のある種の代表みたいになっている状況が今の日本にあるからなんですが、逆に言うと、これまで彼らが犯罪被害者という存在を無視してきた証左でもあります。

宮崎:
 人間は政治的動物という属性を不可避的に帯びていますから、社会を動かすアクションに乗り出した以上、何がしかの政治的軋轢が生じるのはやむを得ない。これが現実です。

本村:
 そうですね。それまで僕は、「司法と戦う」とまでは言いませんけど、司法に対してきちんと一個一個の事案を見て判断を下してもらいたいということを主張したかっただけなんですよね。明らかに反省していない少年を目の前にして、「もう反省している」という判決を書いて、これまでの判例に倣って刑を下すというような裁判のあり方を直してもらいたかったんです。


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 弁護士事務所において実際に事務手続をしているのは、弁護士ではなく、低賃金の事務職です。光市事件において「ドラえもんが助けてくれると思った」という文字をパソコンで打ち、それをプリンターで印刷し、誤字脱字がないか一字一句チェックし、ホッチキスで止め、各事務所間でファクスをしたのは恐らく事務方の人々です。最高裁の弁論の日に模擬裁判のスケジュールを入れるように命じられて粛々と処理を行ったのも、苦情の電話への対応や懲戒請求に対する答弁書の作成に追われて連日の深夜残業を強いられたのも、恐らく事務方の人々です。この目の前の苦悩が見えない弁護士には、遠くの苦悩は見えないはずだと思います。

 あまり知られていないことですが、弁護士事務所では事務方に対して労働基準法が守られていないことが多く、サービス残業はおろかセクハラも頻発しています。どの組織でも、対外的に正義感の強さを標榜する者は、内部では権力を振りかざす独裁者になりがちだと思います。「正義の味方」という外面の良さが強調されるほど、そのまま「灯台下暗し」という陥穽に落ちるということです。「法律の専門家である弁護士が労働基準法を守らないのは矛盾だ」というのは、あくまでも外部からの理屈です。組織の内部では、「司法試験に受かっていない素人の事務方が弁護士に労働基準法を説くなど恐れ多い」という力関係があります。

 ある人権派弁護士の秘書をしていて精神を病み、退職を余儀なくされた方の話を聞いたことがあります。その弁護士の著作を読むと、「過ちを犯しても何度でもやり直せる社会を作ることの重要性」や「人の過ちを赦すことの大切さ」が述べられており、優れた人格者であることが窺われます。他方、元秘書の方は、コーヒーが温ければ怒られ、コーヒーが熱ければ怒られ、ホッチキスの玉がなくなれば激怒され、ボールペンのインクが出なければ激高され、探している書類が見つからないときなどは烈火の如く怒鳴りつけられ、秘書がコピー用紙のサイズを間違えたときなどは人格まで否定され、不眠症からうつ病に陥ったとのことでした。

 光市事件で死刑判決が言い渡され、記者会見を終えて各々の事務所に戻った弁護士を迎える空気を、私はあまり想像したくありません。不機嫌で一触即発の状態の弁護士の周りで、ピリピリして張り詰めている事務方の状況を思うと、身が縮こまります。すぐに上告だ、再審だとして大量の仕事を言いつけられたならば、組織のために働いて給料を得ている社会人は、事務作業を淡々とこなすのみです。自分の意見を持つ余裕もなく、無色透明の雑用係に徹するだけです。ここでは、「仕事である」との割り切りが全てであり、仕事の流儀、やりがいといった概念の出る幕はないと思います。「人殺しは赦されるべきだが仕事のミスは絶対に許されない」という価値序列に身が持たなくなるからです。

本村洋、宮崎哲弥、藤井誠二著 『光市母子殺害事件』 その2

2012-11-12 23:58:52 | 読書感想文

p.196~

本村:
 個人的な感情はやはり薄れてきているのかもしれない。10年という時は長いです。いろんな記憶が薄れていきます。例えば、妻や娘の声を今聞いて、的確に言い当てられるかと言えば、自信がないです。
 少しずついろんな思いとか考えが変わってきたということもありますし、自分自身も1つの事件だけに固執するのではなくて、いろんな方と出会ったり、話をすることで、視野が少しずつ広くなっていったと思います。ですから、世間から感情が薄れているというふうに詮索されても仕方がないのかと。

宮崎:
 しかし、それがいけないことなんですかね。私は常々「被害者遺族が人生を享受するのは不謹慎である」とするような世の中は根本的に間違っていると思っているのです。

本村:
 2人の苦しみとか憎しみを僕はわかってあげられないかもしれないですが、2人の命をいかに無駄にせずに、社会に反映させてあげられるか……。僕も当然、いつか命が尽きていなくなります。事件から50年、100年と経ったときに、この事件をきっかけによくなった法律が残っていたりすれば本望かなと思って今活動や発言をさせてもらってます。

宮崎:
 それはそれで貴重な志だし、本村さんにしかできない事業だと思いますが、その目的達成のために、「普通の」暮らしが送れず、過度にストイックな人生を歩まなければならないとすれば、それは被害者救済のためにならないような気がするんだよね。運動は運動だし、それは人生のほんの一部でいい。ラディカルに言えば、被害者遺族という立場すら、本村洋という人間の一面に過ぎない。

藤井:
 ステレオタイプな被害者像をむさぼっているだけの社会では、とても大事なことだと思いますね。本村さんのご両親が以前「もう一度、結婚して家庭を築いてほしい」とおっしゃられていたことを思い出しました。


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 本村氏はこの対談において、自分が市井の会社員であること、普通のサラリーマンであることを何回も述べています。あまりに当然のことを繰り返さなければならないのは、社会の側が押し付けるステレオタイプの像が動かし難いからだと思います。これは、いわゆる死刑廃止に向けた活動が常時存在するイデオロギーであり、活動家におけるライフワークであることに否応なく対応させられている結果だと思います。そして、「人権派弁護士の苦しい闘い」は自由意思で選んだ結果の自己実現ですが、「被害者遺族の苦しい闘い」は常に脱出したいのにできない絶望であり、同列に並べられるものではないと感じます。

 本村氏は事件から9年経った頃、精神的に限界となり、犯罪被害者に関する講演活動を一切やめて仕事に集中したとのことです。この辺りも、死刑廃止論の政治的主張との違いが際立ちます。本村氏は事件以後、自分の生活を立て直すことに苦しみ続けているとのことですが、これは単純に事件と向き合うことでも避けることでもなく、イデオロギーの入り込む余地はないと思います。藤井氏は、本村氏の活動ではない生き様全般を評して、「生活者としての日常」と「被害者遺族としての非日常」の間を移動させられているのだと述べています。

 会社組織の中で給料を得るということは、組織に貢献しつつ自己の評価を高め、会社が抱える課題に積極的に取り組み、その職責を果たすことです。右肩上がりではない時代には、技術と専門性を持った汎用性の高い人間でないと生き残れませんし、社交性・コミュニケーション能力を高めるためには世俗的なものを軽視してはならず、話題が豊富であることが求められます。そして、会社人間にならず広く社会に目を向けると言っても、会社の利益を害してしまえば、社会人として失格との烙印を押されるのがこの社会です。ここにおいて、形而上の「命の重さ」との次元の差異による軋轢は避けがたいと思います。

 社会人が直面する厳しさとは、1つの失敗で責任者の首が飛び、あるいはリストラの嵐に翻弄されて人生設計が根本から狂い、あるいはパワハラで全人格を否定されて死の淵に追い詰められることであり、そこでは胆力と言われるところの精神力の強さが1つの指標になります。また、組織においては、リーダーシップのみならず調整力も備えていなければ、人望を集めるのは困難だと思います。このような世界を生き抜く難易度は、元少年が殺人を犯した後に反省して更生する難易度とは比較にならないほど高いと感じます。それでも、ある日突然妻子を殺される事実を前にすれば、社会の荒波も太刀打ちできないと思います。

本村洋、宮崎哲弥、藤井誠二著 『光市母子殺害事件』 その1

2012-11-09 23:34:14 | 読書感想文

p.136~
(対談の部分です)

宮崎:
 本村さん、F(元少年)はね、一方で非常に不幸な生い立ちを背負ってますよね。この裁判の過程でその事情を知ったときにどう受け止められました?

本村:
 不幸な生い立ちがあるというのは事実だと思うし、否定するつもりはないです。ただそれによって罪を正当化することは違うと思いました。
 彼はまず、彼自身で責任をとらなければいけない。原因はやっぱりいろいろあったと思うんです。確かにお母さんが自殺されたり、家庭内でのお父さんの暴力も確かにあったと聞いています。そこは同情されるべきかもしれない。でもそういう原因があるからと言って、それに責任転嫁して犯罪を正当化することは許されない。

藤井:
 そうした不幸な生い立ちが裁判で重視されるのが、加害者が少年のケースの特徴です。少年事件の「罰」が大人のそれに比べて軽いのは、その分を社会がかぶるという考え方があるからです。ただその場合は再犯をしないように社会が手当てをすべきなのですが、実際はなされていない。


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 元少年が中学生の時に母親を自殺で喪っていたという事実を初めて聞かされたとき、私は一瞬グラッときました。多くの人も同じだろうと想像します。善悪二元論の構造が思わぬ方向から崩され、振り上げた拳のエネルギーがスーッと弱まる感じだと思います。幼い頃に母親を自殺で亡くした子供一般への偏見の問題にも心が向けば、良心の呵責から逃れるわけにも行かないだろうと感じます。

 このようなグラつきを収める方法としては、「同じ境遇に置かれていても大多数の人間は事件を起こさずに一生懸命生きている」「同じ環境で育った人間は全員事件を起こさないとおかしい」といった反証が行われるのが一般的だろうと思います。そうは言っても、元少年については現にそうだったと言われれば反論が難しく、言いようのない気持ち悪さが残ります。どこかポイントがずれており、誰かに上手く誘導されている感じです。

 弁護団は当然、この辺りを強調しており、元少年の精神的な未熟さの原因を母親の自殺に求めていました。しかしながら、本村氏の妻の弥生さんの殺害については「母親のイメージを重ねて甘えたいとの気持ちから抱きついた」と主張し、娘の夕夏ちゃんの殺害について「母親の体内に回帰したいという心情が高まって赤ちゃんを抱いた」と主張するに至っては、技巧的な策略のあざとさの前に、グラッとした繊細な部分が全部飛んでしまう感じがします。

 元少年の母親が自殺しているとなぜ一瞬グラッと来るのか、自分の内心を振り返ってみると、人格として向き合う対象が元少年から亡くなった母親に代わっていたことに気がつきます。ここは、被害者側の場合とは対照的です。被害者側において、殺された被害者本人はあくまでも不在であり、「被害者遺族」という肩書きを付された本村洋氏がすべての人格を引き受けているように思います。これは強烈な思考の枠組みであり、弥生さんや夕夏ちゃんは現に生きていた人格としてではなく、死者の無念を有しつつ天国に送られているように感じます。

 これに対し、元少年の母親は、この文脈において天国に送られていません。息子のことをコテンパンに叩き過ぎてちょっと母親に対して気まずいという感覚は、生きている者に対するときと同じだと思います。母親に対する「人殺しを産んで育てず自分はさっさと死んだ」という非難もなく、元少年に対する「このような事件を起こして天国のお母さんが悲しむ」という文脈も想定されていないと感じます。これは、被害者遺族という肩書きが付けば保護や支援の対象となり、加害者という肩書きが付けば反省や更生の対象となるという固定観念によるものだと思います。

 「母親が自殺した事実が遠因となって無関係の人を殺した」という理屈が成り立つのであれば、「妻と娘を惨殺された事実が遠因となって無関係の人を殺した」という理屈はより成り立ちやすいはずだと思います。しかし、実際のところは、「妻と娘を惨殺されてもその犯人の死刑を願ってはいけない」というレベルにまで非対称性は極まっています。「私がこの手で犯人を殺します」と述べた本村氏の言葉に力があったのは、殺人の既成事実に安住している元少年の前に、生と死の対照関係の本筋が示されていたからだと思います。

今西乃子著 『犬たちをおくる日』 その2

2012-10-15 00:01:14 | 読書感想文

p.4~(序文)

 2009年2月19日、午後1時20分。その日、わたし(著者)が殺したのは30頭の成犬、7匹の子犬、11匹のねこであった。その死に顔は、人間をうらんでいるようには見えなかった。彼らはきっと、最期のその瞬間まで飼い主が迎えに来ると信じて待っていたのだろう。

 あの日からずっと、ステンレスの箱の中で死んでいった彼らを思わない日はなかった。「だれかをきらいになるより、だれかを信じているほうが幸せだよ」。犬たちの声が聞こえる。この「命」、どうして裏切ることができるのだろうか……。


p.154~(あとがき)

 「今西さん、ボタンおされますか?」 愛媛県動物愛護センターで当時係長だった岩崎靖氏の言葉に、わたしは迷わず「はい」と答えた。2009年2月19日、時間は午後1時20分だった。

 「どうぞ……」。わたしは岩崎氏にうながされ、右手の人さし指を「注入」と書かれた赤いボタンの上に置いた。モニターには処分機の中の犬たちのあわてる様子がくっきりと映し出されている。わたしはこの手でボタンをおした。犬たちのその後の様子は、本書に書いたとおりである。わたしは決して目をそらすことなく、最後までその様子を見届けた。


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 この社会は矛盾だらけであり、個人の力ではどうにもならないことばかりだと思います。そして、社会は人間の集まりの別名である以上、社会の矛盾が解消されないのは、矛盾が存在しない者にとっては矛盾が存在しないことによるのだと思います。動物の命についても、動物は「ヒト・モノ・カネ」の中の「モノ」であり、それを「ヒト」が「カネ」で買うのだと考えれば、そこには何の矛盾もありません。「犬はモノではなく命なのだ」という認識は、上昇志向が支配するビジネスの現場からは、稚拙で甘ったれた考えだとして一蹴されるのが実際のところだろうと思います。

 動物の命が人間の勝手によって失われている現状に正面から向き合うならば、人間が採り得る態度は、大きく分けて2つだと思います。すなわち、繊細と鈍感です。繊細に考えれば、人間はその考えの途方もなさに潰されます。そして、潰れた後には、潰れていない者がその仕事をしなければなりません。他方、鈍感に考えれば、あるべき理想の世界への希望を持つことができます。しかし、その理想が現実化しなくても、その検証は行われないばかりか、過去の決意すら記憶の彼方に消えます。ここでも、欲望の放流によって倫理的な人間が翻弄されているように思います。

 愛媛県動物愛護センターの現場の最前線において、全身全霊で言葉の話せない犬と向き合っている方々からは、繊細と鈍感の中間ではなく止揚としか言いようのない矜持を感じます。「犬の人気ランキングが下がったから捨てる」という無責任な飼い主の正当化の理屈に唖然とする場面では、鈍感であれば身が持たず、繊細にならざるを得ないものと思います。他方、「あなたが実際に犬の命を奪っている殺し屋だ」という言われのない嫌がらせや非難に向かう場面では、繊細であれば身が持たず、鈍感にならざるを得ないものと思います。

 この本の著者の今西乃子氏は、高い志と誇りを持って動物たちに誠心誠意接している職員の方々に少しでも寄り添い、自身が感じたことを読者に伝えたいとの意志で、ボタンを押したと述べています。以下は私自身の仕事に引き付けた強引な推論ですが、死刑存廃論議に関する「ボタンを押す刑務官の苦しみを国民全体で想像して苦しまなければならない」という主張を思い出し、言葉が有する力の差を認識しました。「ボタンを押す苦しみを想像する」などという行為は生易しいものではなく、人生を破壊する要素を有しており、政治的な主張に結びつける筋立ては安直に過ぎると感じます。

今西乃子著 『犬たちをおくる日』 その1

2012-10-14 00:05:52 | 読書感想文

愛媛県動物愛護センター(犬の殺処分を行っている機関)のノンフィクションです。

p.17~

 ここに来る犬たちの多くは、ただただ不要で望まれない命として、何の役にも立たないやっかいなものとして、自分の手を通し、殺され灰になっていくのだった。それは、小さいころから犬を飼っていた瀧本伸生(センター作業員)にとって、大きな心の痛手をともなう作業だった。もし、犬たちをただの「不要ゴミ」として殺すことができたら、ただの壊れた役に立たないオモチャとして、その死体を焼却炉に放りこむことができたら、どれほど楽だったろう。

 しかし、どんな思いをしても、伸生はその作業を続けるつもりでいた。自分がこの場所からいなくなっても、犬たちの命が救えるわけではない。他のだれかがまた、自分がやっているように犬を捕まえ、処分する作業を引き継ぐだけだ。そして、もし、自分の代わりのだれかが犬という動物を、「命」ではなく「モノ」として扱ったらどうなるのか。「どうせ、殺す犬なんだから」。「ゴミといっしょなんから」。そんな気持ちで犬たちの最期を見届けてほしくはなかった。


p.25~

 伸生の勤める保健所では、次々と飼い主によって犬が持ち込まれた。人をかんだ、世話ができない、しつけができない、飽きた、バカな犬だからいらない……。あきれるほど身勝手な理由で、次々と犬を置き去りにしていく。一度は飼い主から愛情を受けた犬が、最も信頼していた飼い主の手によって捨てられていくのである。ひとり、またひとり、人間としての責任を放棄し、罪を重ねる者が増えるごとに、犬たちはその命のさけびを伸生たちに託し、この世を去っていくのだった。


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 私は、かつて消費者金融のアイフルがやっていたチワワのCMが嫌いでした。ソフトバンク携帯の「お父さん犬」など、タレント犬が人気を集めることも好ましいとは思えません。先日は、兄弟犬ジッペイが熱中症で死んだという出来事もありました。広告は巨大な洗脳装置であり、そこに登場する人間は人格が商品化される以上、擬人化された犬は、そのような人格として商品化されることになります。そこでは、犬が言葉を話せない犬としてではなく、あくまでの人間の側の都合によって、人間と同レベルのキャラクターを演じさせられているように思います。

 動物の命は人間が握っています。従って、動物の命の重さは、人間が他の命に向かい合う際の鏡であるように思います。「人の命は地球より重い」という格言がありますが、動物の命がそれよりも軽いのかという上下関係は、単なる理屈です。実際のところ、言葉が話せない動物の命を無機質な物として扱って心が痛まないのであれば、言葉を話せる人間の命を物のように扱っても心は痛まないのだろうと思います。現在の日本は、人間が犬の首輪をつけられて監禁されて死亡したというニュースに接しても、あまりショックを受けなくなったように感じます。

 ペットショップに勤めている方から、本当に動物が好きな人はこの仕事には向かないと聞いたことがあります。ペットショップの目的は、1匹でも多くの動物を仕入れて売って利益を上げることであり、これが経済社会のシステムです。責任を持って最後まで飼えると思われる人間を選別して売っていては、企業としての存続に関わってくるからです。そして、経済社会においては、このような現実を前にして繊細に心を痛める者は、組織人として考えが甘いとの評価を与えられるのが通常だと思います。そこでは、動物の命の問題が、人間の側の理想と現実のジレンマの問題に替わっています。

 愛媛県動物愛護センターで働く方々の生き様に接すると、文字と写真の上からだけでもその人柄が伝わってくるように感じます。商業主義と利己主義が動かぬ正義の位置を占め、人間の私利私欲のために犬を犠牲にしている現代社会の主流において、この覚悟と矜持は際立つように思います。いつの世も、社会的成功と名声の獲得に余念のない人々が目立つ一方で、必ずその歪みを引き受けて名誉を求めず、より高次の価値を不動のものとして追求できる高潔な人間がいるのだと感じます。

姜尚中著 『日本人はどこへ行くのか』より

2012-10-13 00:02:18 | 読書感想文

p.166~

 日本を取り囲む東北アジア地域の国際関係は、さほど遠くない将来に構造的な変容をこうむる可能性が高い。とくに戦後の日本外交に残された宿題である日朝交渉の動きもからんで、朝鮮半島の平和と統一に向けた展開は、重大な局面を迎えることになるかもしれない。「一衣帯水」の関係にあると言われながら、「近くて遠い」関係にあった隣国のドラスティックな変化は、日本の進路を左右するほどのインパクトを与えることになるのではないか。

 日本の果たすべき役割は、朝鮮半島の平和と統一に向けて積極的な多国間調整の場を提供し、南北間の自主的な対話を促進するような関係諸国との交渉の連絡役をかって出ることである。さらに朝鮮半島の安定と平和的な統一への歩みを足がかりに、そこでつちかわれる多国間の信頼関係を東北アジア地域の軍備管理と軍縮へとつなげ、そのような安全保障の枠組みの中で日本の平和と安全のあり方を構想していくことが望ましいであろう。

 おそらくそれこそが、日本にとって名実ともに冷戦からの脱却を意味しているはずである。その意味では「冷戦の孤島」と言われる朝鮮半島の脱冷戦への胎動は、日本の冷戦体制からの脱却を誘発することになろう。そのとき、日米安保も米韓相互防衛条約もその役割を終え、米国の東北アジアにおける存在はこれまでとは違った意味をもたざるをえないであろう。


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 上記は平成3年(1991年)4月の文章です。未だ拉致問題も判明せず、韓流ブームなど想像もつかない頃のものです。姜氏がこの本の前書きで述べているとおり、数ヶ月前の出来事すら凄まじい速度で忘却の彼方に消えていく現代の時間の生理からすれば、上記の文章は過去の遺物だと思います。

 竹島をめぐる問題について、なぜ朝鮮半島を論じる文化人はこれまで触れてこなかったのか、私には素朴な疑問がありました。本書の全般を通じて、「竹島」という単語は1ヶ所も登場せず、領土の問題は植民地支配による侵略の問題とイコールにされていることに気がつきました。竹島などという小さな島は、あえてそこから目が逸らされたわけではなく、純粋に存在が無視されていたのだと思います。