※ブノワ・ヴェルドン『こころの熟成――老いの精神分析』(2013年)文庫クセジュ
第3章 喪失の取り扱い方(続)
(10)「欲動の融合と脱融合」!生の欲動と死の欲動の「融合」(混合)と「脱融合」(分離)!「老い」は、「脱備給」(関心・注意・情動のエネルギーを向けないこと)をもたらすわけでない!(79-85頁)
J 「生の欲動」は「結集、統一、興奮」を目論むものであり、「死の欲動」は「分離、分散、鎮静」の働きをする。二つの欲動が結びつくと(融合)、付随する連続的な心的作業、すなわち備給と脱備給、接近と離反の余地ができる。(81頁)Cf. 「備給」と「脱備給」:関心・注意・情動のエネルギーを向けることと止めること。
J-2 生の欲動と死の欲動の「融合」or「内的均衡」によってのみ、「心的な生」は可能となる。「一方では混乱や支配という危険を冒して連結と凝集を行い[生の欲動]、他方では寸断化と無化という危険のもとに脱連結と脱結合を行う[死の欲動]。」(82頁)
J-2-2 かくて「老い」は、新たな「内的均衡」の達成である。「抑うつ的な苦痛を帯びた社会的孤立」という「老い」の事実は、「脱備給」(※関心・注意・情動のエネルギーを向けないこと)をもたらすわけでない。(82頁)
J-2-2-2 例えば「多くの高齢者たちは、休息する権利を訴えながらも、出会いや新たな知識を欲望し、永遠に第一線での役割を果たせなくても、社会問題に対して関心を抱いている。」(82-83頁)
J-3 繰り返し「喪失」に直面すると「欲動の融合」(生の欲動と死の欲動の融合)が試練に晒される。「引き剥がし」(対象や機能の喪失など)のせいで「均衡」が崩れる。(83頁)
J-3-2 主体は「ケアの可能性を危うくするような対象に固着」したり(「危険行為」)、「他者を損なうほど強大なナルシス的満足に固着」(退行的閉じこもりorナルシス的な退行)したりする。(83-84頁)
J-4 「老い」を通じて諸々の「均衡」や「関係性」が再編成を迫られる。新たな「欲動の連結」は「アンビヴァレンスを維持する好ましい対象」の介在によって支えられる。かくて「まとまりが崩壊すること」、「死そのものが優位になること」、「心的生活が消滅すること」が予防される。(84-85頁)
《感想10》「老い」は、生の欲動と死の欲動の新たな「内的均衡」の達成である。「老い」が「抑うつ的な苦痛を帯びた社会的孤立」という事実であるとしても、「脱備給」(※関心・注意・情動のエネルギーを何ものにも向けないこと)をもたらすわけでない。
《感想10-2》「生きている」間、われわれは「死」を知らない。
(11)死の問題!「死の表象」がどんなに恐ろしいものであってもそれは「死の表象or幻想」であって、「死」でない!(85-93頁)
K キケロは一方で「死が刻一刻、差し迫っていると恐れていては、いかにして恒常心を維持できよう」と言いつつ、他方で「自然にしたがって生じるものは、すべて善きものとみなされなければならない。しかるに、老人が生を終えることほど、自然に従ったものがあるだろうか」と記す。(86頁)
K-2 「死の表象or幻想」は「死」でない。「死の表象or幻想」は「生」の中にある。(87頁)
K-2-2 実際、「死の展望に直面した主体」は、「去勢や受動性」を含む表象、「見捨てられ不安」・「消滅不安」・「破壊不安」・「迫害不安」を掻き立てる表象など、複数の表象を動員しやすい。(92頁)
K-3 ポール・ニザン(26歳)が言う。「本当の死とは、死にほかならないもの、生ではないもの、そして人間が何も、自分のことも、自分のことを考えているとも考えないときに置かれる状態のことなのだ。」(92頁)
K-4 蘇らせたハドリアヌス帝に、マルグリット・ユルスナールが言わせる。「私は死を急ぐことをあきらめてしまった。・・・・私の忍耐は身を結びつつある。前ほど苦しまなくなったし、人生はふたたびほとんど甘美なものになりつつある。・・・・いましばし、共にながめよう。この親しい岸辺を、もはや二度とふたたび見ることのない事物を・・・・目をみひらいたまま、死のなかに歩み入るよう努めよう・・・・」(93頁)
《感想11》本当の「死」は「生」のうちにない。「死」とは「生」でないものだ。
《感想11-2》「死の表象」がどんなに恐ろしいものであってもそれは「死の表象or幻想」であって、「死」でない。
第3章 喪失の取り扱い方(続)
(10)「欲動の融合と脱融合」!生の欲動と死の欲動の「融合」(混合)と「脱融合」(分離)!「老い」は、「脱備給」(関心・注意・情動のエネルギーを向けないこと)をもたらすわけでない!(79-85頁)
J 「生の欲動」は「結集、統一、興奮」を目論むものであり、「死の欲動」は「分離、分散、鎮静」の働きをする。二つの欲動が結びつくと(融合)、付随する連続的な心的作業、すなわち備給と脱備給、接近と離反の余地ができる。(81頁)Cf. 「備給」と「脱備給」:関心・注意・情動のエネルギーを向けることと止めること。
J-2 生の欲動と死の欲動の「融合」or「内的均衡」によってのみ、「心的な生」は可能となる。「一方では混乱や支配という危険を冒して連結と凝集を行い[生の欲動]、他方では寸断化と無化という危険のもとに脱連結と脱結合を行う[死の欲動]。」(82頁)
J-2-2 かくて「老い」は、新たな「内的均衡」の達成である。「抑うつ的な苦痛を帯びた社会的孤立」という「老い」の事実は、「脱備給」(※関心・注意・情動のエネルギーを向けないこと)をもたらすわけでない。(82頁)
J-2-2-2 例えば「多くの高齢者たちは、休息する権利を訴えながらも、出会いや新たな知識を欲望し、永遠に第一線での役割を果たせなくても、社会問題に対して関心を抱いている。」(82-83頁)
J-3 繰り返し「喪失」に直面すると「欲動の融合」(生の欲動と死の欲動の融合)が試練に晒される。「引き剥がし」(対象や機能の喪失など)のせいで「均衡」が崩れる。(83頁)
J-3-2 主体は「ケアの可能性を危うくするような対象に固着」したり(「危険行為」)、「他者を損なうほど強大なナルシス的満足に固着」(退行的閉じこもりorナルシス的な退行)したりする。(83-84頁)
J-4 「老い」を通じて諸々の「均衡」や「関係性」が再編成を迫られる。新たな「欲動の連結」は「アンビヴァレンスを維持する好ましい対象」の介在によって支えられる。かくて「まとまりが崩壊すること」、「死そのものが優位になること」、「心的生活が消滅すること」が予防される。(84-85頁)
《感想10》「老い」は、生の欲動と死の欲動の新たな「内的均衡」の達成である。「老い」が「抑うつ的な苦痛を帯びた社会的孤立」という事実であるとしても、「脱備給」(※関心・注意・情動のエネルギーを何ものにも向けないこと)をもたらすわけでない。
《感想10-2》「生きている」間、われわれは「死」を知らない。
(11)死の問題!「死の表象」がどんなに恐ろしいものであってもそれは「死の表象or幻想」であって、「死」でない!(85-93頁)
K キケロは一方で「死が刻一刻、差し迫っていると恐れていては、いかにして恒常心を維持できよう」と言いつつ、他方で「自然にしたがって生じるものは、すべて善きものとみなされなければならない。しかるに、老人が生を終えることほど、自然に従ったものがあるだろうか」と記す。(86頁)
K-2 「死の表象or幻想」は「死」でない。「死の表象or幻想」は「生」の中にある。(87頁)
K-2-2 実際、「死の展望に直面した主体」は、「去勢や受動性」を含む表象、「見捨てられ不安」・「消滅不安」・「破壊不安」・「迫害不安」を掻き立てる表象など、複数の表象を動員しやすい。(92頁)
K-3 ポール・ニザン(26歳)が言う。「本当の死とは、死にほかならないもの、生ではないもの、そして人間が何も、自分のことも、自分のことを考えているとも考えないときに置かれる状態のことなのだ。」(92頁)
K-4 蘇らせたハドリアヌス帝に、マルグリット・ユルスナールが言わせる。「私は死を急ぐことをあきらめてしまった。・・・・私の忍耐は身を結びつつある。前ほど苦しまなくなったし、人生はふたたびほとんど甘美なものになりつつある。・・・・いましばし、共にながめよう。この親しい岸辺を、もはや二度とふたたび見ることのない事物を・・・・目をみひらいたまま、死のなかに歩み入るよう努めよう・・・・」(93頁)
《感想11》本当の「死」は「生」のうちにない。「死」とは「生」でないものだ。
《感想11-2》「死の表象」がどんなに恐ろしいものであってもそれは「死の表象or幻想」であって、「死」でない。