※ブノワ・ヴェルドン『こころの熟成――老いの精神分析』(2013年)文庫クセジュ
第5章 老いにおける脳とこころ:心的因果性(心的装置)と器質的因果性(脳の病理解剖学的次元)を対立させず多因的に原因を捉える!
(17)「認知症」という概念! (128-129頁)
Q 「認知症」という概念:この言葉は「軽蔑的かつ侮蔑的な側面でひどく汚されている。」(128頁)
Q-2 「病気[認知症]の人は、しばしば自分に何が生じているのかをよく理解している。」(128頁)
Q-3 「近親者たち」は「老いた親」に見られる「ひきこもり」すなわち「言語的交流や習慣的な活動からの脱備給」(※心的エネルギーを注がないこと)に注意を払うべきだ。「認知症」の兆候だ。(129頁)
《感想17》「老いた親」が「言語的交流や習慣的な活動」をしなくなったら、「認知症」の兆候だ!
(17)-2 こころの機能の解体!「認知症」では過去の記憶を現在のことのように再生すること(エクムネジー)も起きる!(130-141頁)
R 認知症における「こころの機能」の解体:「思考・言語・記憶」の障害!(130頁)
R-2 「《途切れることなく存在してきた感覚》[アイデンティティ]や、《主体に固有の現実》と《外的現実》がはっきりと区別されたなかでの《自己および他者への安定した備給関係》は、《思考》が展開されるうえで貴重な受け皿である。」(130頁)
R-3 認知症のD婦人の例:D婦人は「[すでに死んだ]母親が次回訪ねて来て、おやつを持ってきてくれるのが楽しみなのだ」と語る。また「自分はまだ12歳なのよ」と語る。(133頁)
R-4 認知症のT婦人の例:T婦人はいつも廊下に立って「喉がかわいた、喉がかわいた」と言っている。介護者がコップの水を出すが、それを受け取らない。T婦人は「介護者の行動」と「自分が発する言葉」を結び付けることができない。T婦人の懇願の「言葉」は彼女の「幼少期の大切な経験」とおそらくつながっている。介護者がこの「言葉」について知る意味と異なる。T婦人の場合、「心的装置のまとまり」が失われている。(134-135頁)
R-4-2 患者本人(T婦人)には過去のある「心的内容物」[喉がかわいた]が過去のものとみなされていない。(エクムネジーecmnesia=新規健忘:現在のことを忘却し、過去の記憶をあたかも現在のことのように再生すること。)(135頁)
《感想17-2》「認知症」においては「こころの機能」の解体が起きる。(ア)自分が《途切れることなく存在してきた感覚》の消失。(Ex. 「自分はまだ12歳なのよ」。)(イ)《主体に固有の現実》と《外的現実》がはっきりと区別されない。(Ex. 「[すでに死んだ]母親が次回訪ねて来て、おやつを持ってきてくれる」。)(ウ)「言葉」に自分固有の意味を与え、介護者がその「言葉」にどんな意味を与えるか顧慮できない、等々。
(17)-2-2 認知症における「アイデンティティの障害」!(136-141頁)
R-5 アイデンティティ(自己意識)は、一方で「認知プロセス」(自分を認識して、自分の名前を言え、自分がいる時間と場所がわかる能力等)に裏付けられているだけでなく、他方で「ナルシス的かつ無意識的基盤」に関わっている。(136-137頁)
R-5-2 「老化」において「ナルシシズムの大々的な脆弱化」が起こる。「自身の死を考え、失墜という刻印を無理矢理押される老い」の「耐えがたさ」は「病的なメランコリー性の脱備給」(心的エネルギーが動員できないこと)を引き起こしかねない。かくて「アイデンティティに関しても無関心となる。」(137頁)
R-5-3 「物忘れがひどいと、自分に自信が持てなくなる」。Ex. 水道やガスを使用するとき、車を運転する時の危険。Ex. 身なりも整えず、来た道も思い出せない外出などの危険!(138頁)
R-5-4 「認知症」の様々の例:(a)記憶や見当識の障害のせいで妄想様の不安が生じ、他者により略奪・侵略されたと思う。(b)脆弱で依存的なのに、絶えず拒絶的で反抗的だ。(c)個人的意思をあたかもすべて放棄して、病気の当初から、子供や配偶者に全面的に身をゆだねる。(d)「委ねられた相手」が「慰めの源」として備給されることもあるが、(d)-2 「道具のような扱われ方」をされることもある。(d)-3「よそ者」として備給されたり、(g)「あらゆる状況を解決してくれる自己の延長」のように備給されることもある。(138頁)
《参考》「見当識」とは、時、場所、人物などから、自身が現在置かれている状況を理解する能力のこと。「ここはどこか」「いつなのか」「なぜここにいるのか」「目の前の人は誰か」など。認知症になると、時(年月日→季節)→場所→人(自分→他人)の順に障害される。
R-6 「認知症」は「神経解剖学的な因果性」だけに帰されるべきでない。「心的因果性」も同時に、常に作動している。(139頁)
R-6-2 「認知症」の患者においても「心的生活は存続しており、たとえ依存性が強くなり、見当識が失われ・・・・たとしても、欲望、愛や憎しみ、見捨てられる不安や全能感の自惚れなどが・・・・存続する。」(139頁)
《参考》「全能感」は幼児的万能感という幻想だ。泣いていたら、大人が駆け寄ってきて助けてくれ、願いも大人が聞きとどけてくれる。自分が大人or他者を支配し、自由に動かせる力を持っていると思う。得難く強い者には媚びへつらい、すでに掌中に置いた相手は見下し利用するという対人関係を作る。
R-7 「心理療法」は、「主体のアイデンティ感覚」を支えることを目論む。「患者が最期まで『私』と言える可能性を残す」ことをめざす。(140-141頁)
《感想17-2-2》「認知症」の患者においても「心的生活」は存続している。「欲望」、「愛や憎しみ」、「見捨てられる不安」、「全能感の自惚れ」など。「煩悩」は深い。
(17)-3 「身近な介護者」:夫婦や親子による介護!虐待が起きるのは珍しいことではない!(142-145頁)
S 夫婦や親子による介護には、意識的or無意識的水準において、「情緒的なアンビヴァレンス(愛と憎しみ)や理想、償いの欲求、さらに自己犠牲などが大いに関与している。」(142-143頁)
S-2 「施設であれ家庭であれ、虐待が起きるのは珍しいことではない。・・・・脆弱な人たちは、身体的にも精神的にも傷ついていて、特に自分が誰を相手にしているのか、何を求められているのかを理解していないと、ときに反抗的となる。」(144頁)
S-3 フロイトは「愛および献身」を問題視する。彼は「暴力」が「人間の本性」に由来するという。「人間は・・・・温和な生き物などでない。生まれ持った欲動の相当部分が攻撃傾向だ・・・・。隣人を見ると人は・・・・その労働力を搾取し、同意も得ぬまま性的に利用し、所有物を奪い取り、侮辱し、苦痛を与え、虐待し、殺したくなる。」(144頁)
《感想17-3》介護者の「愛および献身」の道は険しい。人間の「生まれ持った欲動」の相当部分が「攻撃傾向」(攻撃性)だ。また「脆弱な人たち」は、身体的にも精神的にも傷ついていて、しばしば「反抗的」となる。
第5章 老いにおける脳とこころ:心的因果性(心的装置)と器質的因果性(脳の病理解剖学的次元)を対立させず多因的に原因を捉える!
(17)「認知症」という概念! (128-129頁)
Q 「認知症」という概念:この言葉は「軽蔑的かつ侮蔑的な側面でひどく汚されている。」(128頁)
Q-2 「病気[認知症]の人は、しばしば自分に何が生じているのかをよく理解している。」(128頁)
Q-3 「近親者たち」は「老いた親」に見られる「ひきこもり」すなわち「言語的交流や習慣的な活動からの脱備給」(※心的エネルギーを注がないこと)に注意を払うべきだ。「認知症」の兆候だ。(129頁)
《感想17》「老いた親」が「言語的交流や習慣的な活動」をしなくなったら、「認知症」の兆候だ!
(17)-2 こころの機能の解体!「認知症」では過去の記憶を現在のことのように再生すること(エクムネジー)も起きる!(130-141頁)
R 認知症における「こころの機能」の解体:「思考・言語・記憶」の障害!(130頁)
R-2 「《途切れることなく存在してきた感覚》[アイデンティティ]や、《主体に固有の現実》と《外的現実》がはっきりと区別されたなかでの《自己および他者への安定した備給関係》は、《思考》が展開されるうえで貴重な受け皿である。」(130頁)
R-3 認知症のD婦人の例:D婦人は「[すでに死んだ]母親が次回訪ねて来て、おやつを持ってきてくれるのが楽しみなのだ」と語る。また「自分はまだ12歳なのよ」と語る。(133頁)
R-4 認知症のT婦人の例:T婦人はいつも廊下に立って「喉がかわいた、喉がかわいた」と言っている。介護者がコップの水を出すが、それを受け取らない。T婦人は「介護者の行動」と「自分が発する言葉」を結び付けることができない。T婦人の懇願の「言葉」は彼女の「幼少期の大切な経験」とおそらくつながっている。介護者がこの「言葉」について知る意味と異なる。T婦人の場合、「心的装置のまとまり」が失われている。(134-135頁)
R-4-2 患者本人(T婦人)には過去のある「心的内容物」[喉がかわいた]が過去のものとみなされていない。(エクムネジーecmnesia=新規健忘:現在のことを忘却し、過去の記憶をあたかも現在のことのように再生すること。)(135頁)
《感想17-2》「認知症」においては「こころの機能」の解体が起きる。(ア)自分が《途切れることなく存在してきた感覚》の消失。(Ex. 「自分はまだ12歳なのよ」。)(イ)《主体に固有の現実》と《外的現実》がはっきりと区別されない。(Ex. 「[すでに死んだ]母親が次回訪ねて来て、おやつを持ってきてくれる」。)(ウ)「言葉」に自分固有の意味を与え、介護者がその「言葉」にどんな意味を与えるか顧慮できない、等々。
(17)-2-2 認知症における「アイデンティティの障害」!(136-141頁)
R-5 アイデンティティ(自己意識)は、一方で「認知プロセス」(自分を認識して、自分の名前を言え、自分がいる時間と場所がわかる能力等)に裏付けられているだけでなく、他方で「ナルシス的かつ無意識的基盤」に関わっている。(136-137頁)
R-5-2 「老化」において「ナルシシズムの大々的な脆弱化」が起こる。「自身の死を考え、失墜という刻印を無理矢理押される老い」の「耐えがたさ」は「病的なメランコリー性の脱備給」(心的エネルギーが動員できないこと)を引き起こしかねない。かくて「アイデンティティに関しても無関心となる。」(137頁)
R-5-3 「物忘れがひどいと、自分に自信が持てなくなる」。Ex. 水道やガスを使用するとき、車を運転する時の危険。Ex. 身なりも整えず、来た道も思い出せない外出などの危険!(138頁)
R-5-4 「認知症」の様々の例:(a)記憶や見当識の障害のせいで妄想様の不安が生じ、他者により略奪・侵略されたと思う。(b)脆弱で依存的なのに、絶えず拒絶的で反抗的だ。(c)個人的意思をあたかもすべて放棄して、病気の当初から、子供や配偶者に全面的に身をゆだねる。(d)「委ねられた相手」が「慰めの源」として備給されることもあるが、(d)-2 「道具のような扱われ方」をされることもある。(d)-3「よそ者」として備給されたり、(g)「あらゆる状況を解決してくれる自己の延長」のように備給されることもある。(138頁)
《参考》「見当識」とは、時、場所、人物などから、自身が現在置かれている状況を理解する能力のこと。「ここはどこか」「いつなのか」「なぜここにいるのか」「目の前の人は誰か」など。認知症になると、時(年月日→季節)→場所→人(自分→他人)の順に障害される。
R-6 「認知症」は「神経解剖学的な因果性」だけに帰されるべきでない。「心的因果性」も同時に、常に作動している。(139頁)
R-6-2 「認知症」の患者においても「心的生活は存続しており、たとえ依存性が強くなり、見当識が失われ・・・・たとしても、欲望、愛や憎しみ、見捨てられる不安や全能感の自惚れなどが・・・・存続する。」(139頁)
《参考》「全能感」は幼児的万能感という幻想だ。泣いていたら、大人が駆け寄ってきて助けてくれ、願いも大人が聞きとどけてくれる。自分が大人or他者を支配し、自由に動かせる力を持っていると思う。得難く強い者には媚びへつらい、すでに掌中に置いた相手は見下し利用するという対人関係を作る。
R-7 「心理療法」は、「主体のアイデンティ感覚」を支えることを目論む。「患者が最期まで『私』と言える可能性を残す」ことをめざす。(140-141頁)
《感想17-2-2》「認知症」の患者においても「心的生活」は存続している。「欲望」、「愛や憎しみ」、「見捨てられる不安」、「全能感の自惚れ」など。「煩悩」は深い。
(17)-3 「身近な介護者」:夫婦や親子による介護!虐待が起きるのは珍しいことではない!(142-145頁)
S 夫婦や親子による介護には、意識的or無意識的水準において、「情緒的なアンビヴァレンス(愛と憎しみ)や理想、償いの欲求、さらに自己犠牲などが大いに関与している。」(142-143頁)
S-2 「施設であれ家庭であれ、虐待が起きるのは珍しいことではない。・・・・脆弱な人たちは、身体的にも精神的にも傷ついていて、特に自分が誰を相手にしているのか、何を求められているのかを理解していないと、ときに反抗的となる。」(144頁)
S-3 フロイトは「愛および献身」を問題視する。彼は「暴力」が「人間の本性」に由来するという。「人間は・・・・温和な生き物などでない。生まれ持った欲動の相当部分が攻撃傾向だ・・・・。隣人を見ると人は・・・・その労働力を搾取し、同意も得ぬまま性的に利用し、所有物を奪い取り、侮辱し、苦痛を与え、虐待し、殺したくなる。」(144頁)
《感想17-3》介護者の「愛および献身」の道は険しい。人間の「生まれ持った欲動」の相当部分が「攻撃傾向」(攻撃性)だ。また「脆弱な人たち」は、身体的にも精神的にも傷ついていて、しばしば「反抗的」となる。