※ブノワ・ヴェルドン『こころの熟成――老いの精神分析』(2013年)文庫クセジュ
第1章 老化というプロセス(続)
(4)「老化というプロセス」における「労働」の問題、あるいは「社会的因果性」!(35-40頁)
D 「労働は、愛と同様に、人間の条件のひとつの不変の要素であり、アイデンティティの保証となるものである。多くの男女が労働のなかに、(a)生きる理由や、(b)情熱を傾ける理由、さらには(c)自分を開花させる理由、そしてそれだけでなく(d)苦しむ理由を見出している。」(36頁)
《感想4》「老化」とは「労働」しなくなる(「リタイア」する)ことだ。人は「労働」のうちに見出していた「アイデンティティの保証」、「生きる理由」、「情熱を傾ける理由」、「自分を開花させる理由」、「苦しむ理由」を、「労働」以外の領域に見出さねばならない。(ただし「苦しむ理由」だけは容易に見つかる。)
D-2 老人は、かつては「死のリスク」を生き延びた者たちであり、「賢人や助言者」という立場さえ与えられた。(35頁)
《感想4-2》今も、日本の経済界、政治家たちの世界では、男の「老人たち」が支配している。
D-3 だが「労働」からの撤退、「リタイア」した者としての老人の多くは、高齢者問題の対象として、しばしば語られる。そこでは「イニシアチブも活力も欠き・・・・もてあますことしかできない自由や、日々の時間の空虚さや単調さに直面し、孤立した老人」というイメージが行きわたる。(38頁)
D-3-2 「非活動的で非生産的な高齢者は、集合的表象の中では、(ア)依存的であり、(イ)知的および肉体的なパフォーマンスの低下の犠牲者、(ウ)厄介者、さらには(エ)脆弱(ゼイジャク)な経済社会の寄生者である。」(38頁)
《感想4-3》このように「老化」は、「根本的に過酷でつらい経験」だが、著者は「しかし解放的な補修を行うことができる者もいる」(39頁)と述べる。この著作がその道を明らかにするだろうと、評者は期待する。
(5)「老化というプロセス」における「心的因果性」、また「心的時間性」の問題!高齢者のこころの機能を解明しなければならない!(40-52頁)
E 人は「内的現実」に生き、そこには「無意識的なこころの働きのダイナミクス」が存在する。「外的現実」を重視しすぎてはならない。(43頁)
E-2 「過ぎ去る時間」とともに「過ぎ去らない時間」もある。「過去の時間」は「死せる時間」ではない。(44頁)
E-2-2 「トラウマ的な加工されざる別の時間の次元」があり、「こころの作業」において「過去を変化させ、過去についての語りを刷新する」ことができる。すなわち「過ぎ去ったものを現在形で生きる」ことができる。(45-46頁)
E-2-3 「線形的な時間の観点から見れば非常に遠く離れている二つの心的出来事は、精神的空間のなかではきわめて近接しうる。」(46頁)
E-2-4 「心的生活は、多くの人にとって線形性も秩序立てもほとんどない時間性によって動かされている」:「心的時間性」!(48頁)
E-3 フロイトは「神経症」を「現勢神経症」(現実神経症)と「精神神経症」(防衛-精神神経症)とに区別した。(49頁)
(1)「精神神経症」(防衛-精神神経症)は、「心的機制」を駆動させることで「象徴的な厚みのある症状」を展開する。「精神神経症」とは例えば転移神経症(ヒステリー神経症、強迫神経症、恐怖神経症)である。(49頁)
(2)「現勢神経症」(神経衰弱、不安神経症、心気症)は、「心的装置の無能力性」を特徴とし、「身体と関わる症状表出」(無力症、疼痛、めまい、突発的な不安発作等)を伴う。(49頁)
E-3-2 「現勢神経症のパラダイムは・・・・高齢者のこころの機能を解明する方法にはなりえないだろう。というのも現勢神経症のパラダイムでは、生き生きした様態やこころの中の葛藤がなく、現勢的なものと乳幼児的なもの(※過ぎ去ったもの)を結びつける事後性のダイナミクスが機能しない。」(51頁)
《感想5》人は「過ぎ去る時間」つまり客観的時間とともに、「過ぎ去らない時間」つまり「心的時間」を生きる。「過去の時間」は「死せる時間」ではない。Cf.「死んだ子の年を数える」。
《参考》フロイトは「神経症」を「現勢神経症」(現実神経症)と「精神神経症」とに区別した。
(1)「精神神経症」には、たとえば(a)「転換性障害・解離性障害(ヒステリー)」(意識化されない心理的葛藤により身体症状が生じる=転換される)、(b)「不安ヒステリー」、(c)「強迫神経症」(Ex. 払いのけられない強迫観念、しないでいられない強迫行為を伴う。Ex. 不潔に思い過剰に手を洗う、戸締りを不安に思い何度も確認する)がある。
(2)「現勢神経症」は小児期からの心理的葛藤でなく、身体機能の障害の結果,自律神経症状や情動障害を呈する。(ア)「神経衰弱」、(イ)「不安神経症」、(ウ)「心気症」(ヒポコンデリー;実際には病気でないのに,心身の不全感に悩み,重篤な疾患ではないかと恐れる状態)がある。
Cf. 「現勢神経症」の症状は心的機制の不在ゆえに、「精神神経症」の症状のように「精神分析」によって分割できない。
Cf. 「精神神経症」である「転換性障害・解離性障害(ヒステリー)」は、急に歩けなくなったり、声が出なくなったりといった身体的な症状が現れるので、しばしば内科的疾患を疑うことからスタートする。 だが内科的には全く異常がないことか、「転換性障害・解離性障害」と診断されるにいたる。
第1章 老化というプロセス(続)
(4)「老化というプロセス」における「労働」の問題、あるいは「社会的因果性」!(35-40頁)
D 「労働は、愛と同様に、人間の条件のひとつの不変の要素であり、アイデンティティの保証となるものである。多くの男女が労働のなかに、(a)生きる理由や、(b)情熱を傾ける理由、さらには(c)自分を開花させる理由、そしてそれだけでなく(d)苦しむ理由を見出している。」(36頁)
《感想4》「老化」とは「労働」しなくなる(「リタイア」する)ことだ。人は「労働」のうちに見出していた「アイデンティティの保証」、「生きる理由」、「情熱を傾ける理由」、「自分を開花させる理由」、「苦しむ理由」を、「労働」以外の領域に見出さねばならない。(ただし「苦しむ理由」だけは容易に見つかる。)
D-2 老人は、かつては「死のリスク」を生き延びた者たちであり、「賢人や助言者」という立場さえ与えられた。(35頁)
《感想4-2》今も、日本の経済界、政治家たちの世界では、男の「老人たち」が支配している。
D-3 だが「労働」からの撤退、「リタイア」した者としての老人の多くは、高齢者問題の対象として、しばしば語られる。そこでは「イニシアチブも活力も欠き・・・・もてあますことしかできない自由や、日々の時間の空虚さや単調さに直面し、孤立した老人」というイメージが行きわたる。(38頁)
D-3-2 「非活動的で非生産的な高齢者は、集合的表象の中では、(ア)依存的であり、(イ)知的および肉体的なパフォーマンスの低下の犠牲者、(ウ)厄介者、さらには(エ)脆弱(ゼイジャク)な経済社会の寄生者である。」(38頁)
《感想4-3》このように「老化」は、「根本的に過酷でつらい経験」だが、著者は「しかし解放的な補修を行うことができる者もいる」(39頁)と述べる。この著作がその道を明らかにするだろうと、評者は期待する。
(5)「老化というプロセス」における「心的因果性」、また「心的時間性」の問題!高齢者のこころの機能を解明しなければならない!(40-52頁)
E 人は「内的現実」に生き、そこには「無意識的なこころの働きのダイナミクス」が存在する。「外的現実」を重視しすぎてはならない。(43頁)
E-2 「過ぎ去る時間」とともに「過ぎ去らない時間」もある。「過去の時間」は「死せる時間」ではない。(44頁)
E-2-2 「トラウマ的な加工されざる別の時間の次元」があり、「こころの作業」において「過去を変化させ、過去についての語りを刷新する」ことができる。すなわち「過ぎ去ったものを現在形で生きる」ことができる。(45-46頁)
E-2-3 「線形的な時間の観点から見れば非常に遠く離れている二つの心的出来事は、精神的空間のなかではきわめて近接しうる。」(46頁)
E-2-4 「心的生活は、多くの人にとって線形性も秩序立てもほとんどない時間性によって動かされている」:「心的時間性」!(48頁)
E-3 フロイトは「神経症」を「現勢神経症」(現実神経症)と「精神神経症」(防衛-精神神経症)とに区別した。(49頁)
(1)「精神神経症」(防衛-精神神経症)は、「心的機制」を駆動させることで「象徴的な厚みのある症状」を展開する。「精神神経症」とは例えば転移神経症(ヒステリー神経症、強迫神経症、恐怖神経症)である。(49頁)
(2)「現勢神経症」(神経衰弱、不安神経症、心気症)は、「心的装置の無能力性」を特徴とし、「身体と関わる症状表出」(無力症、疼痛、めまい、突発的な不安発作等)を伴う。(49頁)
E-3-2 「現勢神経症のパラダイムは・・・・高齢者のこころの機能を解明する方法にはなりえないだろう。というのも現勢神経症のパラダイムでは、生き生きした様態やこころの中の葛藤がなく、現勢的なものと乳幼児的なもの(※過ぎ去ったもの)を結びつける事後性のダイナミクスが機能しない。」(51頁)
《感想5》人は「過ぎ去る時間」つまり客観的時間とともに、「過ぎ去らない時間」つまり「心的時間」を生きる。「過去の時間」は「死せる時間」ではない。Cf.「死んだ子の年を数える」。
《参考》フロイトは「神経症」を「現勢神経症」(現実神経症)と「精神神経症」とに区別した。
(1)「精神神経症」には、たとえば(a)「転換性障害・解離性障害(ヒステリー)」(意識化されない心理的葛藤により身体症状が生じる=転換される)、(b)「不安ヒステリー」、(c)「強迫神経症」(Ex. 払いのけられない強迫観念、しないでいられない強迫行為を伴う。Ex. 不潔に思い過剰に手を洗う、戸締りを不安に思い何度も確認する)がある。
(2)「現勢神経症」は小児期からの心理的葛藤でなく、身体機能の障害の結果,自律神経症状や情動障害を呈する。(ア)「神経衰弱」、(イ)「不安神経症」、(ウ)「心気症」(ヒポコンデリー;実際には病気でないのに,心身の不全感に悩み,重篤な疾患ではないかと恐れる状態)がある。
Cf. 「現勢神経症」の症状は心的機制の不在ゆえに、「精神神経症」の症状のように「精神分析」によって分割できない。
Cf. 「精神神経症」である「転換性障害・解離性障害(ヒステリー)」は、急に歩けなくなったり、声が出なくなったりといった身体的な症状が現れるので、しばしば内科的疾患を疑うことからスタートする。 だが内科的には全く異常がないことか、「転換性障害・解離性障害」と診断されるにいたる。