宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

ブノワ・ヴェルドン『こころの熟成』第4章「性的なものとその運命」(その1):性愛的身体!老人の性的快楽追求への道徳的非難!老化とエディプス葛藤!享楽としての受動性!断念と屈服!

2021-12-26 22:14:55 | Weblog
※ブノワ・ヴェルドン『こころの熟成――老いの精神分析』(2013年)文庫クセジュ

第4章 性的なものとその運命
(12)器官的身体と性愛的身体:老いゆく男女の性的欲望は「全般的退化」というイメージよりも、はるかに豊かだ!(95-98頁)
L 「器官的身体」は人間が生物学的に脆弱(ゼイジャク)で、水と肉と血からできていて、そして「具象的で朽ち果ててゆく存在」であることを思い出させる。(96頁)
L-2 「性愛的身体」:だが「他者との関係」や「自身との関係」のなかに関わる「心的ダイナミックス」の水準で身体を考えることが重要だ。年を取ることは、「性関係を持てるかどうか」に大きな影響を与えるが、「欲望がおおきく減退する」ことは少ない。「こころのセクシュアリティ」が存在する。(96頁)
L-2-2 老いゆく男女の欲望の源泉や対象は、多元的であり、「全般的退化」というイメージよりもはるかに豊かだ。通俗的な表象は「老化」を(a)単純化によってか、(b)習慣によってか、(c)抵抗によってか、これら「退化」のイメージのなかに閉じ込める。(98頁)
《感想12》「器官的身体」が「老化」したからといって、老いゆく男女の性的欲望は「全般的退化」するわけでない。「こころのセクシュアリティ」が存在する。消え去ることはない。「性愛的身体」は「変転」するが「退化」しない。

(13)高齢者の快と性的なもの:「老人が性的快楽を追求するのは気まずさを生み、非難・からかいの的となる」というような道徳的規範がある!(99-103頁)
M 多くの老人が表明する。「この性愛的身体が、たった一つの老化という要因だけで衰えたりしない!」(99頁)
M-2 (ア)「もうそんな年ではない」と性的なものへの嫌悪感を評価する者もいる。それは「達観」かもしれない。しかし(イ)それは道徳的規範(老人が性的快楽を追求するのは気まずさを生み、非難・からかいの的となる)に対する一種の「防衛」でもある。(ウ)一部の高齢者は、性行為そのものへの備給cathexisの衰えから「昇華」によるリビドーの満足に移行する。(Ex. 文化的好奇心、市民参加、友人・子・孫との情動的関係。)(100-101頁)
《感想13》「老人が性的快楽を追求するのは気まずさを生み、非難・からかいの的となる」というような道徳的規範は、老人が《身体的あるいは認知的》に「弱体化・劣化・弱者化」することと対(ツイ)になっている。

(14)「老化」における「受動性・去勢(万能であることをあきらめること)――エディプス葛藤(父に子が勝てないことor父への敵意)の現実化と再編成」!(103-112頁)
N 「まことに、汝らに告ぐ。若き日は自分でベルトを締め、好きなところに行っていたが、年老いると、手を広げ、誰かに[ベルトを]締め付けられ、行きたくないところに連れていかれる。」(「ヨハネによる福音書」21章18節)(103頁)
N-2 「わしは今でも家長で、父親だ。」「よく言うぜ、もうろく爺さんよ。あんたはもはや何でもないんだ。」(エミール・ゾラ『大地』)(104頁)
N-3  これらの言明は「老化」における「去勢」(万能であることをあきらめること)と「世代転覆幻想」、さらに「エディプス葛藤(父に子が勝てないことor父への敵意)の現実化と再編成」を示す。(104頁)
N-4「老化」における「去勢」に対する反抗:Ex.1「自分が近親者の負担になってしまうことを心配してしまう。」(106頁)Ex.2「私は藁くずのようには扱われたくない。後見人の世話になんてなりたくない。・・・・そこにはこころの尊厳なんてないから。」(107頁)Ex.3「身体的にも認知的にも実力を示さねばと思うことは、多くの老人にとって苦痛の種であり続ける。」(108頁)
N-5 父と子の和解:「年老いたエディプスは、テセウス――彼が王の地位を認める若者――のような人物によって葛藤を解かれた。思慮深い保護のもとにある心地よい終のすみかを見出すことができた。」(108頁)
《感想14》「エディプス葛藤(父に子が勝てないことor父への敵意)の現実化と再編成」は老人にとって、恐るべき事態だ。成人した子が父親に現実的に復讐し、力関係が再編成される。(逆転する!)「よく言うぜ、もうろく爺さんよ。あんたはもはや何でもないんだ」と子が老いた父を恫喝する。

N-6 「享楽としての受動性」と「寄る辺なさとしての受動性」:「老化」において「人は物事の成り行きを変更できなくなっていく」。(「喪失」!)主体がこの受動性の経験に、内的現実の次元において「同意」できれば、それは「享楽としての受動性」となる。彼は「他者へ委任されたポジションを享楽する」。だが、この受動性の経験に同意できなければ、それは「寄る辺なさとしての受動性」となる。(109-111頁)
《感想14-2》年老いたら、素直に介護者からの「助け」を受け入れる。自分の「喪失」そして「受動性」を拒否せず「同意」し、他者からの「助け」を感謝し享楽する。これは大切だ!人間関係の「潤滑油」でもある!

N-7 「断念」と「屈服」:「老化」における「喪失」の際に働く心的作業の質には、「断念」と「屈服」が区別できる。(111頁)
N-7-2 「断念」は、「自らに課されている限界という事実」(「喪失」)と「まだ残されている潜在的な可能性という事実」を統合し、「失われた対象」とは別のところに「快の源泉」を見出す。(111頁)
N-7-3  反対に「屈服」の場合、「失われた対象」は「乱暴な仕方で自分から奪われたもの」として体験される。これは「老化」における「喪失」に対して、ナルシス的で、メランコリー的な対処法だ。(111-112頁)
《感想14-3》「失われた対象」という事実に対し、一方で「断念」という心的作業と、他方で「屈服」という心的作業が可能だ。「断念」はポジティヴ、「屈服」はネガティヴと普通、言われる。
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