※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、近代~現代篇」(2020年)「平成」の章(457-478頁)
(123)-3 「9条があろうとなかろうと、結果は同じであった」との言明は誤りだ!「9条」は歴史的に見れば、終戦後、そして冷戦後、日本の国際的な「行動規範」 であった!(471-472頁)
E 百田尚樹『日本国紀』は「たしかに戦後半世紀以上、日本を軍事的に脅かす国は現れなかった。つまり9条があろうとなかろうと、結果は同じであったともいえる」(百田500頁)と述べる。
E-2 百田氏の誤り③:だが「9条があろうとなかろうと、結果は同じであった」との言明は誤りだ。「憲法9条を過小評価しすぎ」だ。以下、「戦後史の段階的流れ」に沿って見て行く。(471頁)
(ア)戦後の日本が復興し、東南アジア・東アジアの国々が受け入れてくれた背景として、「戦争放棄」を掲げたことが大きかった!
戦後、日本は「軍国主義を放棄」し「新生日本」となった。これによってサンフランシスコ平和条約で調印しなかった国とも国交を回復したり、平和条約を締結したり、さらには多くの国が賠償金を放棄してくれた。そして日本も経済援助などに積極的に取り組んできた。戦後の日本が復興し、東南アジア・東アジアの国々が受け入れてくれた背景として、「戦争放棄」を掲げたことが大きかった。(472頁)
(イ)軍国主義を放棄し「新生日本」を示した現行憲法が、日本の国際社会への復帰を後押しした!
吉田茂のサンフランシスコ講和会議での演説が説得力を帯びたのは、日本が口先だけでなく、態度で示したからだ。すなわち国際社会に日本が復帰できた過程において、「軍国主義を放棄」し「新生日本」を示した現行憲法の意味は大きかった。(472頁)→参照(104)
《参考1》戦後、日本は「軍国主義を放棄」し、「新生日本」となる。(「ポツダム宣言」の受諾!)戦後の「奇跡的な復興」を支えた要因は「国民の勤勉さ」のみでなく、敵国として戦ったアメリカや世界の国々が日本の復興のために「援助」の手を差し伸べてくれたことにある。(391頁)(※第1次大戦後、ヴェルサイユ条約でドイツに課せられた膨大な賠償金がドイツを再び戦争へと向かわせたことへの反省から、連合国は第2次世界大戦後、過酷な賠償をドイツにも日本にも課していない。)
《参考1-2》(ア)敵国であったアメリカから、日本はガリオア・エロア援助を受けた。その総額は、約18億ドル、今なら約12兆円だ。ガリオア・エロア援助は、通貨安定はもちろん、鉄道、通信、電力、海運、石炭産業など、インフラ及び基幹産業育成の原資となった。(391頁)(※アメリカはサンフランシスコ平和条約に基づく「戦争賠償」も日本に請求していない。「鬼畜米英」でなかった。)
《参考1-3》 (イ)さらに日本は国際連合の国際復興開発銀行(世界銀行)からの借り入れもしている。1953年から1966年まで、計34件8億6千万ドル余の借款を受けた。Ex. 黒四ダム(黒部第4水力発電)、愛知用水、東名・名神高速、新幹線。(391頁)
《参考1-4》 (ウ)敗戦後「世界最貧国の一つ」だった日本は「食糧難」に苦しんだ。アメリカの「ガリオア基金」が学校給食を援助した。さらに1949年から1964年まで15年間、ユニセフ(国連児童基金)から65億円の援助を受け、子供たちに粉ミルク、衣服の綿、衣料品などを支援してもらった。(※第1次大戦の後のドイツのような膨大な賠償金が日本に課せられていたら、そしてアメリカや連合国・国連から何の援助もなされなかったら、「国民の勤勉さ」も、また「死に物狂い」で働いても、成果(利益)が日本人に還元されず、アメリカなど連合国に大部分吸収され、日本が「世界最貧国」であり続けることもあり得た。戦後、日本が「軍国主義を放棄」し、「新生日本」となったことによって、敵国として戦ったアメリカや世界の国々が日本の復興のために「援助」の手を差し伸べてくれた。)
《参考2》サンフランシスコ平和(講和)条約調印の際の吉田茂全権の演説(1951年)には次のような文言がある。「この平和条約は復讐の条約ではなく、『和解』と『信頼』の文書であります。日本全権は、この公平寛大なる平和条約を欣然受諾いたします。」「アジアに国をなすものとして、日本は他のアジア諸国と緊密な友好と協力の関係を開きたいと熱望するものであります。」「それらの国々と日本は伝統、文化、思想ならびに理想をともにしているのであります。」(409頁)
《参考2-2》この吉田の演説は、中国やインドへの「メッセージ」ともなった。(a)台湾の中国国民党政府とは1952年4月に講和が成立し、蒋介石は賠償請求権の放棄で、吉田が示した日本の意思に応えた。(b)インドも1952年6月、平和条約を日本と調印し、同じくすべての賠償請求権を放棄するとした。(410頁)
《参考2-3》「戦犯赦免」の国際的同意の背景には以上のような事柄があった。①終戦後、日本人は、「戦前の軍国主義とプロパガンダが誤っていた」と「自力」で気づいた。②「戦犯たち」もある意味で「軍国日本の犠牲者」ではなかったかと日本人は思った。③戦後の「戦犯赦免」もまた、日本の「復興」の一環であると、国際的に理解してもらえた。④「平和条約は復讐の条約ではなく、『和解』と『信頼』の文書であります」と吉田首相が述べ、それが各国に受け入れられた。(410頁)
《参考3》1972年日中共同声明で、日本は外交方針を大転換し、中華人民共和国を唯一の合法政府と認めた。ここから、平和友好条約を目的とした両国の「歩み寄り」が始まる。当時の中国の首相周恩来は日中国交回復にあたって、1952年の蒋介石と同様に「賠償」を放棄した。周恩来の考え方は「日本軍国主義は、戦争によって中国に大きな災難をもたらし、日本人民も多くの被害を受けた」というもので一貫していた。つまり加害の主体を「日本」ではなく「日本軍国主義」とし、被害者に中国人民のみならず日本国民をも含めた。よって同じ被害者の「日本国民」に二重の苦しみを背負わせるとして、賠償を放棄した。こうして1978年、日中平和友好条約が締結された。(433-434頁)
(ウ)「経済・人道支援活動」で「日本の自衛隊やPKO活動」が評価された!
冷戦後の国際紛争で、日本の自衛隊やPKO活動が評価されている理由は、日本が「軍事力の行使」ではなく、「軍事力」(「実力」)を持ちながらもそれを行使しない「経済・人道支援活動」を行ったからだ。(472頁)
《参考4》冷戦の終結(1989年12月)の年は、平成元年(1989年1/8 ~)だ。「冷戦後」の国際情勢に対する日本政府の対応を以下、見てみよう。(470-471 頁)
(a)1990年8月イラクのクウェート侵攻後、1991年1/17、湾岸戦争が始まる。アメリカ軍を主力とする多国籍軍が国連決議を背景に、武力制裁を実行した。(1991年3/3暫定休戦協定。)
(a)-2 日本はアメリカに迫られ「国際貢献」の名のもとに資金援助を行った。
(b)宮沢喜一内閣は1992年、国連平和維持活動(PKO)協力法を成立させ、PKOに日本が積極的に関わるようになった。1992年からカンボジアに停戦監視のため自衛隊を派遣。
(b)-2 以後、モザンビーク(1992-94)、ザイール(1994)、ゴラン高原(1996-2013)でのPKOは現地の政府、あるいは住民から高い評価を得てきた。
(c)1999年自由党・公明党が政権参加し(自自公連立政権)、衆参両議院で安定多数を確保すると、「新ガイドライン関連法」(周辺事態法)が制定された。(※「周辺事態法」により、日米安保体制は「アジア・太平洋安保」として機能することになり、自衛隊の軍事分担が拡大し、「本土防衛」のみならず、新たに「周辺事態」に対処することが可能となった。)
(d)2001年「9・11同時テロ」に係わる「アフガニスタン紛争」に対しては、日本政府は「テロ対策特別措置法」(2001-2007年)を制定し、海上自衛隊がインド洋で給油活動を行った。Cf. 「補給支援特別措置法」(2008-2010年)
(d)-2 さらにまた2002年、自衛隊は東ティモールでもPKOを行った。(2002-2003年)
(e)2003年のイラク戦争に対しては、日本政府は「イラク復興支援特別措置法」(2003-2009年)を制定し、その人道的支援も高い評価を得た。
E-2-2 かくて「9条」は「足かせ」でなく、歴史的に見れば、終戦後、そして冷戦後、日本の国際的な「行動規範」 であったと考えることができる。(472頁)
(123)-3 「9条があろうとなかろうと、結果は同じであった」との言明は誤りだ!「9条」は歴史的に見れば、終戦後、そして冷戦後、日本の国際的な「行動規範」 であった!(471-472頁)
E 百田尚樹『日本国紀』は「たしかに戦後半世紀以上、日本を軍事的に脅かす国は現れなかった。つまり9条があろうとなかろうと、結果は同じであったともいえる」(百田500頁)と述べる。
E-2 百田氏の誤り③:だが「9条があろうとなかろうと、結果は同じであった」との言明は誤りだ。「憲法9条を過小評価しすぎ」だ。以下、「戦後史の段階的流れ」に沿って見て行く。(471頁)
(ア)戦後の日本が復興し、東南アジア・東アジアの国々が受け入れてくれた背景として、「戦争放棄」を掲げたことが大きかった!
戦後、日本は「軍国主義を放棄」し「新生日本」となった。これによってサンフランシスコ平和条約で調印しなかった国とも国交を回復したり、平和条約を締結したり、さらには多くの国が賠償金を放棄してくれた。そして日本も経済援助などに積極的に取り組んできた。戦後の日本が復興し、東南アジア・東アジアの国々が受け入れてくれた背景として、「戦争放棄」を掲げたことが大きかった。(472頁)
(イ)軍国主義を放棄し「新生日本」を示した現行憲法が、日本の国際社会への復帰を後押しした!
吉田茂のサンフランシスコ講和会議での演説が説得力を帯びたのは、日本が口先だけでなく、態度で示したからだ。すなわち国際社会に日本が復帰できた過程において、「軍国主義を放棄」し「新生日本」を示した現行憲法の意味は大きかった。(472頁)→参照(104)
《参考1》戦後、日本は「軍国主義を放棄」し、「新生日本」となる。(「ポツダム宣言」の受諾!)戦後の「奇跡的な復興」を支えた要因は「国民の勤勉さ」のみでなく、敵国として戦ったアメリカや世界の国々が日本の復興のために「援助」の手を差し伸べてくれたことにある。(391頁)(※第1次大戦後、ヴェルサイユ条約でドイツに課せられた膨大な賠償金がドイツを再び戦争へと向かわせたことへの反省から、連合国は第2次世界大戦後、過酷な賠償をドイツにも日本にも課していない。)
《参考1-2》(ア)敵国であったアメリカから、日本はガリオア・エロア援助を受けた。その総額は、約18億ドル、今なら約12兆円だ。ガリオア・エロア援助は、通貨安定はもちろん、鉄道、通信、電力、海運、石炭産業など、インフラ及び基幹産業育成の原資となった。(391頁)(※アメリカはサンフランシスコ平和条約に基づく「戦争賠償」も日本に請求していない。「鬼畜米英」でなかった。)
《参考1-3》 (イ)さらに日本は国際連合の国際復興開発銀行(世界銀行)からの借り入れもしている。1953年から1966年まで、計34件8億6千万ドル余の借款を受けた。Ex. 黒四ダム(黒部第4水力発電)、愛知用水、東名・名神高速、新幹線。(391頁)
《参考1-4》 (ウ)敗戦後「世界最貧国の一つ」だった日本は「食糧難」に苦しんだ。アメリカの「ガリオア基金」が学校給食を援助した。さらに1949年から1964年まで15年間、ユニセフ(国連児童基金)から65億円の援助を受け、子供たちに粉ミルク、衣服の綿、衣料品などを支援してもらった。(※第1次大戦の後のドイツのような膨大な賠償金が日本に課せられていたら、そしてアメリカや連合国・国連から何の援助もなされなかったら、「国民の勤勉さ」も、また「死に物狂い」で働いても、成果(利益)が日本人に還元されず、アメリカなど連合国に大部分吸収され、日本が「世界最貧国」であり続けることもあり得た。戦後、日本が「軍国主義を放棄」し、「新生日本」となったことによって、敵国として戦ったアメリカや世界の国々が日本の復興のために「援助」の手を差し伸べてくれた。)
《参考2》サンフランシスコ平和(講和)条約調印の際の吉田茂全権の演説(1951年)には次のような文言がある。「この平和条約は復讐の条約ではなく、『和解』と『信頼』の文書であります。日本全権は、この公平寛大なる平和条約を欣然受諾いたします。」「アジアに国をなすものとして、日本は他のアジア諸国と緊密な友好と協力の関係を開きたいと熱望するものであります。」「それらの国々と日本は伝統、文化、思想ならびに理想をともにしているのであります。」(409頁)
《参考2-2》この吉田の演説は、中国やインドへの「メッセージ」ともなった。(a)台湾の中国国民党政府とは1952年4月に講和が成立し、蒋介石は賠償請求権の放棄で、吉田が示した日本の意思に応えた。(b)インドも1952年6月、平和条約を日本と調印し、同じくすべての賠償請求権を放棄するとした。(410頁)
《参考2-3》「戦犯赦免」の国際的同意の背景には以上のような事柄があった。①終戦後、日本人は、「戦前の軍国主義とプロパガンダが誤っていた」と「自力」で気づいた。②「戦犯たち」もある意味で「軍国日本の犠牲者」ではなかったかと日本人は思った。③戦後の「戦犯赦免」もまた、日本の「復興」の一環であると、国際的に理解してもらえた。④「平和条約は復讐の条約ではなく、『和解』と『信頼』の文書であります」と吉田首相が述べ、それが各国に受け入れられた。(410頁)
《参考3》1972年日中共同声明で、日本は外交方針を大転換し、中華人民共和国を唯一の合法政府と認めた。ここから、平和友好条約を目的とした両国の「歩み寄り」が始まる。当時の中国の首相周恩来は日中国交回復にあたって、1952年の蒋介石と同様に「賠償」を放棄した。周恩来の考え方は「日本軍国主義は、戦争によって中国に大きな災難をもたらし、日本人民も多くの被害を受けた」というもので一貫していた。つまり加害の主体を「日本」ではなく「日本軍国主義」とし、被害者に中国人民のみならず日本国民をも含めた。よって同じ被害者の「日本国民」に二重の苦しみを背負わせるとして、賠償を放棄した。こうして1978年、日中平和友好条約が締結された。(433-434頁)
(ウ)「経済・人道支援活動」で「日本の自衛隊やPKO活動」が評価された!
冷戦後の国際紛争で、日本の自衛隊やPKO活動が評価されている理由は、日本が「軍事力の行使」ではなく、「軍事力」(「実力」)を持ちながらもそれを行使しない「経済・人道支援活動」を行ったからだ。(472頁)
《参考4》冷戦の終結(1989年12月)の年は、平成元年(1989年1/8 ~)だ。「冷戦後」の国際情勢に対する日本政府の対応を以下、見てみよう。(470-471 頁)
(a)1990年8月イラクのクウェート侵攻後、1991年1/17、湾岸戦争が始まる。アメリカ軍を主力とする多国籍軍が国連決議を背景に、武力制裁を実行した。(1991年3/3暫定休戦協定。)
(a)-2 日本はアメリカに迫られ「国際貢献」の名のもとに資金援助を行った。
(b)宮沢喜一内閣は1992年、国連平和維持活動(PKO)協力法を成立させ、PKOに日本が積極的に関わるようになった。1992年からカンボジアに停戦監視のため自衛隊を派遣。
(b)-2 以後、モザンビーク(1992-94)、ザイール(1994)、ゴラン高原(1996-2013)でのPKOは現地の政府、あるいは住民から高い評価を得てきた。
(c)1999年自由党・公明党が政権参加し(自自公連立政権)、衆参両議院で安定多数を確保すると、「新ガイドライン関連法」(周辺事態法)が制定された。(※「周辺事態法」により、日米安保体制は「アジア・太平洋安保」として機能することになり、自衛隊の軍事分担が拡大し、「本土防衛」のみならず、新たに「周辺事態」に対処することが可能となった。)
(d)2001年「9・11同時テロ」に係わる「アフガニスタン紛争」に対しては、日本政府は「テロ対策特別措置法」(2001-2007年)を制定し、海上自衛隊がインド洋で給油活動を行った。Cf. 「補給支援特別措置法」(2008-2010年)
(d)-2 さらにまた2002年、自衛隊は東ティモールでもPKOを行った。(2002-2003年)
(e)2003年のイラク戦争に対しては、日本政府は「イラク復興支援特別措置法」(2003-2009年)を制定し、その人道的支援も高い評価を得た。
E-2-2 かくて「9条」は「足かせ」でなく、歴史的に見れば、終戦後、そして冷戦後、日本の国際的な「行動規範」 であったと考えることができる。(472頁)