宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」(その6):「無限性」は「精神」であり、「精神」は「我々なる我」、「我なる我々」である!

2024-05-27 14:20:25 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」(その6)(134-136頁)
(25)-13 「人倫的体験」がヘーゲル哲学の根柢になっている!
★ヘーゲルはフランクフルト時代に『キリスト教の精神とその運命』という長編の論文を書いている。この時代はヘーゲルのロマンティシズムの時代で、したがって「愛」を至高の境地と考えた時代だ。この「愛」ということを考えると「無限性」のなんであるかがよくわかってくる。(134頁)

《参考》☆1796年(26歳)、ヘーゲルは故郷シュトゥットガルトに帰る。ヴュルテンベルク公国において政治的改革を実施すべしとの激越な政治パンフレットを書く。☆1796-1800年(26-30歳)、ヘーゲルはフランクフルト市の銀行家ゴーゲル家で家庭教師をつとめる。この頃はヘーゲルのロマンティシズムの時代で、「運命」、「愛」、「和らぎ」というようなことが話題になっている。(41-42頁)

★「父親と息子の間に人倫的愛情がある」というのは、「息子」は《父親の願望や考え》をもって《自分のもの》とし、「父親」も《息子の志望や心持ち》をおしはかって《自分のもの》とするとき、「父親は《息子の他者》であり、息子は《父親の他者》でありながら、お互いの間に『統一』があり、お互いの間に『共通の統一的生命』が通ずる」のだ。「父親」と「息子」はお互いに(※別の人間として)わかれていても、「同じ統一」のわかれだ。(134頁)
☆かくて、ここにも「無限性」という関係がある。(134頁)

★このような「愛」を至高の境地と考えたのがヘーゲルのフランクフルト時代だ。(134-135頁)
☆しかし『精神現象学』ではヘーゲルは「愛」は感覚的なもので、「愛」では広い人間関係を解明しえず、「家族」というようなせまい人倫的関係の場合はよいが、「広い人倫関係」の場合はだめだとする。かくてヘーゲルは「愛」をせまい「家族」関係に限る。(135頁)

(25)-13-2 「人倫」の見地をいれると、「他者を意識する」のは「自己を意識する」ことであり、「自己を意識する」のは「他者を意識する」ことであるというのも、非常に充実した意味をもってくる!「無限性」は「精神」であり、その「精神」は「我々なる我」、「我なる我々」である!
★とにかくこのような「人倫的体験」がヘーゲル哲学の根柢になっている。(135頁)
☆「人倫」の見地をいれると、「他者(※対象or他我)を意識する」のは「自己を意識する」ことであり、「自己を意識する」のは「他者(※対象or他我)を意識する」ことであるというのも、非常に充実した意味をもってくる。(135頁)
★「《自己意識》の全き自由と自立とを具えた《両項の統一》であるところの《精神》というこの《絶対的実体》」、換言すれば「『我々なる我』であり『我なる我々』であるところの《精神》」とヘーゲルが述べるように、「無限性」は「精神」であり、その「精神」は「我々なる我」、「我なる我々」である。(135頁)
★ヘーゲル『精神現象学』の「精神」は根本的には「人倫的生活」と分離しえない。(135頁)

★したがって、この「無限性」を本来の「対象意識」(天文学者が月を観測して惑星の軌道を考えるというような「対象意識」)にもってくると、それは本来的には成り立たない。(135頁)

★「『私が机を意識する』ということは『私を意識する』ことであり、『私を意識する』ことは『机を意識する』ことである」というのは、変なものではないかという「疑惑」が残る。(そのように、金子武蔵氏は「悟性段階」の最後のところで、すでに言及した。)(135頁)
☆だが「人倫的関係」をいれると、少なくともある程度までは、この「疑惑心」は解ける。(135頁)

《参考1》さきほど「対象意識は自己意識である」と言ったが、これではたとえば「私が机を意識する」こともじつは「自分を意識する」こととなるわけで、なんだかふにおちない。(125頁)
☆「いわゆる形而上学的なものをふくむのではないか」という「疑惑」が残る。(125-126頁)
☆この「疑惑」は「ヘーゲル哲学」に最後までつきまとうものだ。(126頁)
☆だが「(B)自己意識」の段階がヘーゲルにとって本来の境地であることを思うと、この「疑惑」もある程度まで解ける。(この点については追々、述べる:金子武蔵!)(126頁)

《参考2》「普通の認識」と「哲学的認識」(=「絶対知」):「普通の認識」の立場では、対象を認識することは他者(他在)を認識することで、自分自身を認識することではない。つまり「対象」を認識するときに、その対象は自己と違ったものであり、認識する「自己」も対象とは違ったものであると考えるのが、「(A)意識」の立場だ。(58頁)

《参考3》「認識主観」と「認識客観」は「根柢において同一のもの」の表現であり、両者を超えた「統一」がある!「対象意識」の立場(「B」や「C」を「意識する」)が、「自己意識」(「自己Aを意識する」)にうつってゆく!(123頁)
☆「無限性」は「概念」即ち「自己」にほかならないので、「対象意識」の段階から「自己意識」の段階にうつる。(123頁)
☆「無限性」の概念から我々の「意識」を考えてみよう。まず普通に「意識」するというのは「自己を意識する」のではなく、「対象を意識する」ことだ。(123頁)
☆ところが「無限性」からいうと、「対立」は「相互に他に転換」する。したがって「認識主観」は「客観」へ、「認識客観」は「主観」へというように、「認識主観」と「認識客観」は「根柢において同一のもの」の表現であり、両者を超えた「統一」がある。そしてその「統一」が二分して「対立」し、「相互転換」して「統一」にかえる。このような「無限性」の運動において「対象意識」は成立する。(123頁)
☆「BがCを意識する」あるいは「CがBを意識する」というのは、「BもCもA(同一のもの)のあらわれ」だから、(「C」が)「B」を、また(「B」が)「C」を「意識する」ことではなく、「自己Aを意識する」ことだ。つまり「対象意識」の立場(「B」や「C」を「意識する」)が、「自己意識」(「自己Aを意識する」)にうつってゆく。(123頁)

《参考3-2》「悟性認識の対象」は「物の内なるもの」ではあっても、それは「主体としての、自己の内なるもの」とは別のものではない!「対象の内なるもの」と「主体としての内なるもの」とは同じものだ!
☆言いかえると、「悟性」は「物の内なるもの」をつかむが、その「内なるもの」とは「無限性」であり、しかして「無限性」とは「根柢の統一が対立分化し、その対立がまた統一にかえる」という「運動」だから、「悟性認識の対象」は「物の内なるもの」ではあっても、それは「主体としての、自己の内なるもの」とは別のものではない。(123頁)
☆「対象の内なるもの」と、「自己としての内なるもの」つまり「主体としての内なるもの」とは同じものだ。(123頁)

《参考3-3》「対象意識」も真の本質からいうと「自己意識」だ!「実体は主体である」!
☆このようにして「対象意識」は「自己意識」に転換してゆく。「対象意識」も真の本質からいうと「自己意識」だ。かくて「実体は主体である」というヘーゲルの根本テーゼが出てくる。(124 頁)

(25)-13-3 ヘーゲル『精神現象学』の全部に通じるプリンシプル:「『精神』は『我々なる我』であり『我なる我々』である」!ヘーゲルの「無限性」、「主体」、「精神」というような概念は「人倫的生活」と切りはなせない!
★「『精神』は『我々なる我』であり『我なる我々』である」というのは、ヘーゲル『精神現象学』のこれからのちの全部に通じるプリンシプルであり、いろいろの段階はこのプリンシプルの展開である。(135-136頁)
☆もっとも(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」のA「観察的理性」という段階はこのプリンシプルに直接の関係はない。しかし大体からいえば、この「精神」(「我々なる我」であり「我なる我々」である「精神」)は、ヘーゲル『精神現象学』のこれからのちの叙述に対して目標になる概念だ。(136頁)

★この見地から「人倫の国」というイデーも生まれる。(136頁)
★このようなわけで、ヘーゲルの「無限性」、「主体」、「精神」というような概念は「人倫的生活」と切りはなせない。(136頁)

《参考1》ヘーゲル『精神現象学』の目次。(333-336頁)
(A)「意識」(対象意識):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」(A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」)
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」(A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」(A「真実なる精神、人倫」、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」・Ⅱ「啓蒙」・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」(A「自然宗教」、B「芸術宗教」、C「啓示宗教」)、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

《参考2》「人倫」とは、人間社会・人間集団の倫理という意味で、ヘーゲルはこの「人倫」 の中でこそ、人間の「自由」は現実的に実現されると考えた。 ヘーゲルによれば、「人倫」は「家族―市民社会―国家」として弁証法的に「正―反―合」の螺旋的運動としてあらわされる。「家族」は愛情で結ばれた自然の共同体であるが、個人の自覚は弱いままである。子どもが成長すると「市民社会」の一員となる。それは個人の自覚に基づくが、欲望の衝突があり人と人の結びつきが弱まった共同体だ。この両者(「家族」・「市民社会」)を統合した最高の共同体が「国家」だ。「国家」は「家族」の強い結びつきと「市民社会」の個人の独立性が統合された共同体だ。ヘーゲルは人間の真の自由は「国家」の中でこそ実現され、「国家」の中で人と人との真の結びつきが回復されると考えた。(Cf. NHK高校講座『倫理』)
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