※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」へ「ロマンティスィズム」(その6)(304-305頁)
(79)ヘーゲル『精神現象学』のこれまでの経過の回顧:(A)「意識」(「対象意識」)→(B)「自己意識」→(C)(AA)「理性」(「理性の確信と真理」)→(C) (BB)「精神」→(C)(CC) 「宗教」→(C) (DD)「絶対知」!
★ヘーゲル『精神現象学』のこれまでの経過を回顧してみよう。(304頁)
★段階①《「感覚」→「知覚」→「悟性」》の運動によって「対象意識」が「自己意識」に転換すること。(304頁)
Cf. 《『精神現象学』目次》(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
★段階②「自己意識」に《「欲望」→「主奴」→「自由」》の運動のあること。(304頁)
Cf. 《『精神現象学』目次》(B)「自己意識」orⅣ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
★段階③「自由」(※「無限性」)によって「自己意識」が再び「対象意識」に転換して、「理性」の「あらゆる実在である」という「確信」のえられること。(304頁)
★段階④この「確信」を「実証」すべく、「理性」は「観察」し「行為」すべきであり、そうすることによって「社会」のうちに安住しうるようになること。(304頁)
Cf. 《『精神現象学』目次》(C)(AA)「理性」orⅤ「理性の確信と真理」A「観察的理性」(※「観察」)、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(※「行為」)(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(※「社会」)(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
《参考1》(C)(AA)「理性」あるいはⅤ「理性の確信と真理」の段階の目標は次の通りだ。(156頁)
☆「精神」をその「現象」に即して、「本来の『精神』」にまで高めようとするものがヘーゲル『精神現象学』である。このさい①「現象」が「認識」の段階であるところからしては、『精神現象学』は「絶対知」に到るまでの「意識経験の学」として「認識論」であり、また②「絶対知」の出現が「時代」に媒介せられているところからしては、『精神現象学』は「歴史哲学」を含む。(156頁)
☆「精神」は本来的にはⅧ「絶対知」であるが、それに比較的近い段階(Ⅵ「精神」)では、「精神」は「我なる我々」あるいは「我々なる我」として、広い意味における「社会的」なものである。つまりそれは「人倫の国」において成立する。(157頁)
《参考2》さて当面の段階たる(C)(AA)「理性」あるいはⅤ「理性の確信と真理」の段階は、「対象意識と自己意識の統一」であり、この意味において「あらゆる実在」でありながら、これがまだ「確信」たるにとどまって「真理」となっていない状態にある。この状態が「始点」である。(157-158頁)
☆そして「確信」を「真理」にまで高めるところに、この段階の運動が成立する。(158頁)
《参考3》「自己としての内なるもの」(「主体的なるものとしての内なるもの」、「実体はじつは主体である」という場合の「主体」)、すなわちこの「自己」・「主体」は、ヘーゲルでは「概念」とも言われる。(111頁)
☆この「主体」としての「概念」に、「対象」の側において対応するものが「法則」だ!(111頁)
☆ヘーゲルは「法則」とは「互いに対立した二つの契機をつねにふくむ」と考える。(Ex. 「引力と斥力」、「陰電気と陽電気」、「空間と時間」など。)即ち「法則」の内容は「弁証法的に対立したもの」とヘーゲルは考える。(111頁)
☆さて「弁証法」とは「対立したもの」が「区別され分離されている」と同時に、「相互に転換し統一をかたちづくる」ことだ。「弁証法」的に考えると「対立」は「静的」なものでなく「動的」なものだ。(111頁)
☆ところが「法則」では、そういう「動的」な点がはっきりしていない。そもそも「法則」は「主体」としての「概念」(「動的」な「内なるもの」)を、「存在的なもの」・「対象的なもの」・「静的なもの」として定立することによって成り立つものだからだ。「法則」の立場は「対象的存在的」だ。(111頁)
☆かくて「法則」では「互いに外的のもの・没交渉のもの」が関係づけられる。この関係づけは「量」の見地からからのみなすことができる。(111頁)
《参考4》「法則」は「対立するものの統合」として本来的には「概念」だが、しかし「概念」自身ではなく、「観察的理性」の「対象的」把握によって「対象」化されたものだ。「対象」化されるから「概念」の諸「契機」は、生命を失い固定される。そこで「法則」においては、「固定された契機」の「綜合」、したがってそれら「固定された契機」の「数量的関係」のみが問題になる。(167-168頁)
☆「観察」とは、「記述」が「標識の指示」(本質的なもの)を通じて「法則」を得ることだが、①「記述」の段階では、たとえば、陽電気はガラス電気、陰電気は樹脂電気というようにイメージを描いて「表象」されるが、②「標識の指示」(本質的なもの)をへて、③「法則」が定立されるようになると、かかる「表象」から純化されて、「概念」的に思考せらるべき陰電気と陽電気となり、これらの相対立した「契機」の間に「法則」が立てられる。(168頁)
☆また「自由落下の法則」(落下距離=時間の2乗×重力加速度×1/2)では、「時間」と「空間」という相対立した「契機」の間に「法則」的関係が定立せられる。(168頁)
☆さてこのさい、「法則」がじつは「概念」であるところからすれば、「陽電気と陰電気」、「空間と時間」など「対立した契機」は相互に他に転換して帰一し、そうして「統一」がまた「対立」に分裂するという「無限性」の生ける精神的運動が行われるべきはずだ。(168頁)
☆だが「観察的理性」なるものは、「理性」が「対象意識」の形式をとったものであるために、それぞれの「項」がそれぞれ「独立のもの」として固定せられてしまい、したがって「内面的な質的な規定」がではなく、ただ「量的な規定」だけが問題になり、かくて「数量的関係」を提示することが「法則」定立の課題となる。(168頁)
☆ヘーゲルは、「近代科学」における「法則」が、諸契機の間の「数量的関係」を規定することをもって課題とするという事実を、以上のように解釈している。(168頁)
《参考5》「理性」は、「対象意識」と「自己意識」の「綜合」であり「統一」である。(187頁)
☆そこでおのずから「理性」自身が、一方では「対象意識」に即して展開される。そこに「観察」の問題が生じる。(A「観察的理性」!)(187頁)
☆これに対して、他方で「自己意識」の側面においても、「理性」は展開されなくてはならない。そうしなくては「理性」のもっている「確信」を「真理」にまで高めることはできない。かくて「行為」の問題が出てくる。(187頁)
《参考6》「精神」(「理性」)は、「対象的に見られる」ものでなく、むしろ「働きとしてのみ存在する」から、1「観察」(A「観察的理性」)に対して、さらに2「行為」(B「理性的自己意識の自己自身による実現」)が問題となる。(193頁)
☆「行為」即ち「行為的理性」は(イ)「快楽(ケラク)」(個別態)→(ロ)「心胸(ムネ)」(特殊態)→(ハ)「徳」(普遍態)と運動(展開)する。これ(個・特・普)はヘーゲルの「考え方、論理の運び方」でもある。(193-194頁)
☆論理的にいうと、(A)「対象意識」における《「感覚」→「知覚」→「悟性」》という運動、および(B)「自己意識」における《「欲望」→「承認」→「自由」》という運動が、(C)「理性」2「行為」(B「理性的自己意識の自己自身による実現」)においては、《 (イ)「快楽(ケラク)」(個別態)→(ロ)「心胸(ムネ)」(特殊態)→(ハ)「徳」(普遍態)という運動(展開)》となってくりかえされている。(193-194頁)
《参考7》さて(A)「意識」、(B)「自己意識」の段階を経て、(C)(AA)「理性」あるいはⅤ「理性の確信と真理」の段階が生じたそのとき、「理性」は「あらゆる実在である」という確信を持っており、そのかぎり「観念論」の立場をとる。(283頁)
☆だがこの「理性」はまだ「確信」にすぎず、「無内容」で、「『内容』を『対象』から受け取る」ほかはないところからしては「経験論」の立場をとる。したがって「理性」は最初には「観察」に従事せざるをえない。(「観察的理性」!)(283頁)
☆「観察的理性」に「実践面」において相応ずるものが「純粋透見」だ。(283頁)
☆即ち「観察」の段階((C)(AA)「理性」orⅤ「理性の確信と真理」のA「観察的理性」)では、ルネッサンス以後の「近代科学」において働く「理性」が問題として取り上げられたが、ここ(B「教養」の世界)では現実の「実践的生活」において働く「理性」(「純粋透見」)が問題とされている。(283頁)
★段階⑤「社会」のうちに安住しえたとき人間は「人倫の国」に住むが、これはやがて「法的状態」に移行して「教養」の苦悩が到来すること。(283頁)
★段階⑤-2 しかしこの「教養」の苦悩を通じて「道徳的確信」のえられること。(283頁)
★おおよそこのようなこと(①②③④⑤⑤-2)によって、すでに「絶対知」が成立している。(283頁)
《参考》ヘーゲル自身の「良心的道徳」(※(BB)「精神」C「自己確信的精神、道徳性」c「良心、美魂、悪とその赦し」における「赦し」or「やわらぎ」)にあっては、その展開は不十分ではあるが、すでに「絶対精神」が顕現し「絶対知」に到達している。(304頁)
Cf. 《『精神現象学』目次》((C)「理性」)(BB)「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)
★段階⑥しかしまだ「宗教」(※(CC)「宗教」A「自然宗教」、B「芸術宗教」、C「啓示宗教」)が残っている。そのかぎり「意識」(※(A)「意識」、(B)「自己意識」、(C)(AA)「理性」・(BB)「精神」)がまだ「神という超越者」、したがってまた一般に「他者」を負うていることは否定できない。そこでヘーゲルは((C)「理性」)(CC)「宗教」において宗教の諸形態についての展開を行い、それらの完成であるところの(CC)C「啓示宗教」が(BB)Cc「良心道徳」(「悪とその赦し」or「やわらぎ」)と実質において同じであることを証明し、もって「啓示宗教」を「良心道徳」のうちに摂取し、かくして(DD)「絶対知」が真に成立することになる。(304-305頁)
★この(DD)「絶対知」の成立こそは、ヘーゲルにとっては「現代」の「時代精神」が渇望している課題だ。(305頁)
Cf. 《『精神現象学』目次》((C)「理性」)(CC)「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」
Cf. 《『精神現象学』目次》((C)「理性」)(DD)「絶対知」
Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」へ「ロマンティスィズム」(その6)(304-305頁)
(79)ヘーゲル『精神現象学』のこれまでの経過の回顧:(A)「意識」(「対象意識」)→(B)「自己意識」→(C)(AA)「理性」(「理性の確信と真理」)→(C) (BB)「精神」→(C)(CC) 「宗教」→(C) (DD)「絶対知」!
★ヘーゲル『精神現象学』のこれまでの経過を回顧してみよう。(304頁)
★段階①《「感覚」→「知覚」→「悟性」》の運動によって「対象意識」が「自己意識」に転換すること。(304頁)
Cf. 《『精神現象学』目次》(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
★段階②「自己意識」に《「欲望」→「主奴」→「自由」》の運動のあること。(304頁)
Cf. 《『精神現象学』目次》(B)「自己意識」orⅣ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
★段階③「自由」(※「無限性」)によって「自己意識」が再び「対象意識」に転換して、「理性」の「あらゆる実在である」という「確信」のえられること。(304頁)
★段階④この「確信」を「実証」すべく、「理性」は「観察」し「行為」すべきであり、そうすることによって「社会」のうちに安住しうるようになること。(304頁)
Cf. 《『精神現象学』目次》(C)(AA)「理性」orⅤ「理性の確信と真理」A「観察的理性」(※「観察」)、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(※「行為」)(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(※「社会」)(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
《参考1》(C)(AA)「理性」あるいはⅤ「理性の確信と真理」の段階の目標は次の通りだ。(156頁)
☆「精神」をその「現象」に即して、「本来の『精神』」にまで高めようとするものがヘーゲル『精神現象学』である。このさい①「現象」が「認識」の段階であるところからしては、『精神現象学』は「絶対知」に到るまでの「意識経験の学」として「認識論」であり、また②「絶対知」の出現が「時代」に媒介せられているところからしては、『精神現象学』は「歴史哲学」を含む。(156頁)
☆「精神」は本来的にはⅧ「絶対知」であるが、それに比較的近い段階(Ⅵ「精神」)では、「精神」は「我なる我々」あるいは「我々なる我」として、広い意味における「社会的」なものである。つまりそれは「人倫の国」において成立する。(157頁)
《参考2》さて当面の段階たる(C)(AA)「理性」あるいはⅤ「理性の確信と真理」の段階は、「対象意識と自己意識の統一」であり、この意味において「あらゆる実在」でありながら、これがまだ「確信」たるにとどまって「真理」となっていない状態にある。この状態が「始点」である。(157-158頁)
☆そして「確信」を「真理」にまで高めるところに、この段階の運動が成立する。(158頁)
《参考3》「自己としての内なるもの」(「主体的なるものとしての内なるもの」、「実体はじつは主体である」という場合の「主体」)、すなわちこの「自己」・「主体」は、ヘーゲルでは「概念」とも言われる。(111頁)
☆この「主体」としての「概念」に、「対象」の側において対応するものが「法則」だ!(111頁)
☆ヘーゲルは「法則」とは「互いに対立した二つの契機をつねにふくむ」と考える。(Ex. 「引力と斥力」、「陰電気と陽電気」、「空間と時間」など。)即ち「法則」の内容は「弁証法的に対立したもの」とヘーゲルは考える。(111頁)
☆さて「弁証法」とは「対立したもの」が「区別され分離されている」と同時に、「相互に転換し統一をかたちづくる」ことだ。「弁証法」的に考えると「対立」は「静的」なものでなく「動的」なものだ。(111頁)
☆ところが「法則」では、そういう「動的」な点がはっきりしていない。そもそも「法則」は「主体」としての「概念」(「動的」な「内なるもの」)を、「存在的なもの」・「対象的なもの」・「静的なもの」として定立することによって成り立つものだからだ。「法則」の立場は「対象的存在的」だ。(111頁)
☆かくて「法則」では「互いに外的のもの・没交渉のもの」が関係づけられる。この関係づけは「量」の見地からからのみなすことができる。(111頁)
《参考4》「法則」は「対立するものの統合」として本来的には「概念」だが、しかし「概念」自身ではなく、「観察的理性」の「対象的」把握によって「対象」化されたものだ。「対象」化されるから「概念」の諸「契機」は、生命を失い固定される。そこで「法則」においては、「固定された契機」の「綜合」、したがってそれら「固定された契機」の「数量的関係」のみが問題になる。(167-168頁)
☆「観察」とは、「記述」が「標識の指示」(本質的なもの)を通じて「法則」を得ることだが、①「記述」の段階では、たとえば、陽電気はガラス電気、陰電気は樹脂電気というようにイメージを描いて「表象」されるが、②「標識の指示」(本質的なもの)をへて、③「法則」が定立されるようになると、かかる「表象」から純化されて、「概念」的に思考せらるべき陰電気と陽電気となり、これらの相対立した「契機」の間に「法則」が立てられる。(168頁)
☆また「自由落下の法則」(落下距離=時間の2乗×重力加速度×1/2)では、「時間」と「空間」という相対立した「契機」の間に「法則」的関係が定立せられる。(168頁)
☆さてこのさい、「法則」がじつは「概念」であるところからすれば、「陽電気と陰電気」、「空間と時間」など「対立した契機」は相互に他に転換して帰一し、そうして「統一」がまた「対立」に分裂するという「無限性」の生ける精神的運動が行われるべきはずだ。(168頁)
☆だが「観察的理性」なるものは、「理性」が「対象意識」の形式をとったものであるために、それぞれの「項」がそれぞれ「独立のもの」として固定せられてしまい、したがって「内面的な質的な規定」がではなく、ただ「量的な規定」だけが問題になり、かくて「数量的関係」を提示することが「法則」定立の課題となる。(168頁)
☆ヘーゲルは、「近代科学」における「法則」が、諸契機の間の「数量的関係」を規定することをもって課題とするという事実を、以上のように解釈している。(168頁)
《参考5》「理性」は、「対象意識」と「自己意識」の「綜合」であり「統一」である。(187頁)
☆そこでおのずから「理性」自身が、一方では「対象意識」に即して展開される。そこに「観察」の問題が生じる。(A「観察的理性」!)(187頁)
☆これに対して、他方で「自己意識」の側面においても、「理性」は展開されなくてはならない。そうしなくては「理性」のもっている「確信」を「真理」にまで高めることはできない。かくて「行為」の問題が出てくる。(187頁)
《参考6》「精神」(「理性」)は、「対象的に見られる」ものでなく、むしろ「働きとしてのみ存在する」から、1「観察」(A「観察的理性」)に対して、さらに2「行為」(B「理性的自己意識の自己自身による実現」)が問題となる。(193頁)
☆「行為」即ち「行為的理性」は(イ)「快楽(ケラク)」(個別態)→(ロ)「心胸(ムネ)」(特殊態)→(ハ)「徳」(普遍態)と運動(展開)する。これ(個・特・普)はヘーゲルの「考え方、論理の運び方」でもある。(193-194頁)
☆論理的にいうと、(A)「対象意識」における《「感覚」→「知覚」→「悟性」》という運動、および(B)「自己意識」における《「欲望」→「承認」→「自由」》という運動が、(C)「理性」2「行為」(B「理性的自己意識の自己自身による実現」)においては、《 (イ)「快楽(ケラク)」(個別態)→(ロ)「心胸(ムネ)」(特殊態)→(ハ)「徳」(普遍態)という運動(展開)》となってくりかえされている。(193-194頁)
《参考7》さて(A)「意識」、(B)「自己意識」の段階を経て、(C)(AA)「理性」あるいはⅤ「理性の確信と真理」の段階が生じたそのとき、「理性」は「あらゆる実在である」という確信を持っており、そのかぎり「観念論」の立場をとる。(283頁)
☆だがこの「理性」はまだ「確信」にすぎず、「無内容」で、「『内容』を『対象』から受け取る」ほかはないところからしては「経験論」の立場をとる。したがって「理性」は最初には「観察」に従事せざるをえない。(「観察的理性」!)(283頁)
☆「観察的理性」に「実践面」において相応ずるものが「純粋透見」だ。(283頁)
☆即ち「観察」の段階((C)(AA)「理性」orⅤ「理性の確信と真理」のA「観察的理性」)では、ルネッサンス以後の「近代科学」において働く「理性」が問題として取り上げられたが、ここ(B「教養」の世界)では現実の「実践的生活」において働く「理性」(「純粋透見」)が問題とされている。(283頁)
★段階⑤「社会」のうちに安住しえたとき人間は「人倫の国」に住むが、これはやがて「法的状態」に移行して「教養」の苦悩が到来すること。(283頁)
★段階⑤-2 しかしこの「教養」の苦悩を通じて「道徳的確信」のえられること。(283頁)
★おおよそこのようなこと(①②③④⑤⑤-2)によって、すでに「絶対知」が成立している。(283頁)
《参考》ヘーゲル自身の「良心的道徳」(※(BB)「精神」C「自己確信的精神、道徳性」c「良心、美魂、悪とその赦し」における「赦し」or「やわらぎ」)にあっては、その展開は不十分ではあるが、すでに「絶対精神」が顕現し「絶対知」に到達している。(304頁)
Cf. 《『精神現象学』目次》((C)「理性」)(BB)「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)
★段階⑥しかしまだ「宗教」(※(CC)「宗教」A「自然宗教」、B「芸術宗教」、C「啓示宗教」)が残っている。そのかぎり「意識」(※(A)「意識」、(B)「自己意識」、(C)(AA)「理性」・(BB)「精神」)がまだ「神という超越者」、したがってまた一般に「他者」を負うていることは否定できない。そこでヘーゲルは((C)「理性」)(CC)「宗教」において宗教の諸形態についての展開を行い、それらの完成であるところの(CC)C「啓示宗教」が(BB)Cc「良心道徳」(「悪とその赦し」or「やわらぎ」)と実質において同じであることを証明し、もって「啓示宗教」を「良心道徳」のうちに摂取し、かくして(DD)「絶対知」が真に成立することになる。(304-305頁)
★この(DD)「絶対知」の成立こそは、ヘーゲルにとっては「現代」の「時代精神」が渇望している課題だ。(305頁)
Cf. 《『精神現象学』目次》((C)「理性」)(CC)「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」
Cf. 《『精神現象学』目次》((C)「理性」)(DD)「絶対知」
Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」