宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

斎藤慶典(ヨシミチ)(1957-)「『流れること』と『他なるもの』序論――意識の構造と変容について」(その2):「意識の構造の変容(異常)」のうち(1)「縦軸の系(「流れること」)の変容」!

2021-09-06 17:15:56 | Weblog
※新田義弘・宇野昌人編『他者の現象学Ⅱ:哲学と精神医学のあいだ』北斗出版、1992年所収

2 「意識の構造の変容」
(1)「縦軸の系(「流れること」)の変容(異常)」
(3)「縦軸の系(「流れること」)の変容」:(a)「流れ」の断絶、現在への没入、ここの膨張と偏在!(b) 「流れ」がよそよそしいものとなる!(c) 「流れ」が停滞しよどむ!(37-44頁)
D「間隙の生起」が流れを流れさせている。「間隙の生起」の異常は「流れの流れること」に生ずる異常だ。(38頁)
D-2 「流れること」が時間・空間意識を生起させるので、「流れること」の異常は時間意識・空間意識の変容(異常)を引き起こす。(38頁)
D-2-2  時間意識における変容(異常):(a)《現在》への極端な没入、(b)《未来》へと絶えず先駆けるという仕方での《未来》(予期)の異様な膨張、(c)同じことの繰り返しの中での《過去》の凝結。(38頁)
D-2-3 空間意識における変容(異常):(a-2)「ここ」の膨張と偏在、(b-2)「ここ」の希薄化と拡散、(c-2)「ここ」の縮小と凝固。(38頁)

(3)-2  (a)「間隙の生起(or「流れること」)の異常(変容)の第一」:流れが流れなくなってしまうこと(流れの断絶・途絶)!時間意識における変容(a) 《現在》への極端な没入!空間意識における変容(a-2) 「ここ」の膨張と偏在!(Cf. 37-38頁)(38-40頁)
D-3 「間隙」が「間隙」としてじかに流れの中に露出してしまう事態。(38頁)
D-3-2 「今」と「たった今」が架橋されないし、「ここ」と「そこ」が架橋されない。両者の間に空虚なすきまが生じる。流れが流れない。(38頁)
D-3-3 空虚なすきまの中に「今」が呑みこまれるor流れの他なるものとしての「未来」がじかに経験される。(38頁)
D-3-4 「時間意識における変容」(a)《現在》への極端な没入:一瞬が静止し、現前するすべてが光り輝く。その光に目がくらみこの真白な空白(すきま)の中にすべてが呑みこまれる。流れの停止と解体。時間は停止し、現在への極端な没入。
D-3-4-2 「空間意識における変容」(a-2)「ここ」の膨張と偏在:空間的にすべてが「ここ」となる。(39頁)
D-3-5 「真性癲癇の発作」は、この「間隙の生起(or流れること)の異常の第一」に最も近い。一瞬の永遠化、永遠の現在に呑み込まれるエクスタシー、発作経験の脱落、発作の前と後の時間の断絶。「アウラ体験」(完全に獲得された永久調和、全宇宙の直感、「しかり、そは正し」の心持ち)(ドストエフスキー)。(39-40頁)
D-3-6 また「両極型躁鬱病の躁状態」もこれに近い症状を呈する。世界のすべてと完全に重なり合い、輝ける現在への没入。「今」「ここ」の膨張と偏在。「自分で炭酸水みたいに沸き立ってしまっていた」!(40頁)

(3)-3  (b)「間隙の生起(or「流れること」)の異常(変容)の第二」:流れが急速に流れ去って(失われて)しまうことor「流れ」がよそよそしいものとなること!「流れの希薄化」!時間意識における変容(b) 《未来》へと絶えず先駆けるという仕方での《未来》(予期)の異様な膨張!空間意識における変容(b-2) 「ここ」の希薄化と拡散!(Cf. 37-38頁)(40-42頁)
D-4 「間隙」のもつ架橋能力の相対的弱化。「流れの希薄化」。流れのさまざまな出来事がバラバラでチグハグになる。(40頁)
D-4-2 「時間意識における変容」(b)《未来》へと絶えず先駆けるという仕方での《未来》(予期)の異様な膨張:現在(「今」)が確固としていない。足元から崩れる現在(「今」)。それから逃れるため予期(先取り)された未来にすがる。(40頁)
D-4-3 「空間意識における変容」(b-2)「ここ」の希薄化と拡散:「ここ」が希薄化し、周囲へ流出して行って失われてしまう。「ここ」がスカスカになり、「そこ」に浸食されてしまう。すべてが手元からすべりおちてしまう。(41頁)
D-4-4 「間隙の生起(or「流れること」)の異常の第二」:「流れ」が急速に流れ去って(失われて)しまうことor「流れ」がよそよそしいものとなること!流れに見えない「他なるもの」がひそかに侵入。流れが内側から脅かされている。「流れ」がよそよそしいもの、落ち着けないもの、他性を帯びたものとなる。(41頁)
D-4-5 「分裂病Ⅰ型」は、「間隙の生起(or「流れの流れること」)の異常の第二」の状態を呈する。Ex. 少しでも目を離すと、自分がばらばらに壊れてしまう。Ex. 「もの」のアイデンティティの不安定ないし不成立、「すりかわり」体験。「買ってきたらもう換えられていた。」Ex. 「トイレで尿と一緒に魂が流れていってしまった。」Ex. 「瞬間、瞬間に自分が変わってしまう。」(41頁)
D-4-5-2 なお「分裂病Ⅱ型」は、横軸の系(「他なるもの」)の変容、つまり対他関係・対人関係の歪みから生じる。(42頁)

(3)-4  (c)「間隙の生起(or「流れること」)の異常(変容)の第三」:「流れ」が「停滞」しよどんでしまうこと!「未来」は存在しない!時間意識における変容(c) 同じことの繰り返しの中での《過去》の凝結!空間意識における変容(c-2) 「ここ」の縮小と凝固!(Cf. 37-38頁)(42-44頁)
D-5 「間隙の生起(or「流れること」)の異常の第三」は「間隙」の持つ架橋能力が柔軟性を失って硬直化してしまう事態だ。(42頁)
D-5-2 時間意識における変容(c) 同じことの繰り返しの中での《過去》の凝結!時間は同じところをぐるぐるめぐる習慣化されたパターンを形成。新しい出来事が入り込む余地がない。すべて過去の繰り返しで常同的様相。過去が凝結し、その塊が膨れ上がり現在を侵食する。「未来」に背を向ける。「未来」が流れの中に入ってくることを恐れる。「未来」は存在しない。(42頁)
D-5-3 空間意識における変容(c-2)「ここ」の縮小と凝固!「ここ」以外の「そこ」に対する極度の無関心。(42頁)
D-5-4 「両極型躁鬱病の鬱状態」および「単極性鬱病」は、「間隙の生起(or「流れること」)の異常(変容)の第三」(流れが停滞しよどんでしまうこと)に対応する。Ex. 「散乱した風景の限りない灰色の中で見失われた一個の小石」が私だ。Ex. 「底の方に沈み込んだまま浮かび上れなくなってしまった。」Ex. 「未知なる未来」はあってはならない、「未来はすべて予定済み」。(43頁)
D-5-5 「縦軸の系(「流れること」)の変容」によるものは「鬱病Ⅰ型」と呼ぼう。Cf. これに対し「横軸の系(「他なるもの」)の変容」によるものが「鬱病Ⅱ型」だ。対他関係にかかわる鬱病だ。(43頁)

(3)-5 「縦軸の系(「流れること」)の変容(異常)」による精神疾患:(1)(a)「流れの断絶・途絶」による「真性癲癇の発作」・「両極型躁鬱病の躁状態」!(1)(b)「流れの希薄化」による「分裂病Ⅰ型」!(1)(c)「流れの停滞」による「鬱病Ⅰ型」!(44頁)
D-6  精神疾患は「対人関係論」に解消できない。「意識の構造」における(1)「縦軸の系(「流れること」)の変容(異常)」による精神疾患もあるからだ。(1)(a)「流れの断絶・途絶」による「真性癲癇の発作」・「両極型躁鬱病の躁状態」。(1)(b)「流れの希薄化」による「分裂病Ⅰ型」。Cf. 「分裂病Ⅱ型」は、(2)横軸の系(「他なるもの」)の変容(異常)、つまり対他関係・対人関係の歪みから生じる。(1)(c)「流れの停滞」による「鬱病Ⅰ型」(「両極型躁鬱病の鬱状態」および「単極性鬱病」)。Cf. これに対し「鬱病Ⅱ型」は、(2)「横軸の系」(「他なるもの」)の変容(異常)による。対他関係にかかわる鬱病だ。(44頁)

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斎藤慶典(ヨシミチ)(1957-)「『流れること』と『他なるもの』序論――意識の構造と変容について」(その1):(1)縦軸の系――「流れること」!(2)横軸の系――「他なるもの」(他者・他人)!

2021-09-06 16:33:07 | Weblog
※新田義弘・宇野昌人編『他者の現象学Ⅱ:哲学と精神医学のあいだ』北斗出版、1992年所収

A 「意識している」or「意識されている」とは、「一つの流れ」・「一つの統一」がかたちづくられていることだ。この「流れの統一」が「私」だ。(23頁)

1 「意識の構成と構造」:(1)「縦軸の系――『流れること』」(私の流れ)!(2)「横軸の系――『他なるもの』」(他者・他人)! 
(1)「縦軸の系――『流れること』」:「流れの自己同一性」or「流れの統一」!(24-29頁)
(1)「流れる」とは、流れのうちに時間でも空間でもない「間隙」の生ずることだ!「流れの自己同一性」(「流れの統一」)を「流れ」の「縦軸の系」と呼ぶ!(24-26頁)
B 「意識」を表現する「もっとも根本的なメタファー」は「流れ」だ。(24頁)
B-2 「流れ」は「時間」的経過を示すとともに、「拡がり」をもつという仕方で「空間」(「世界と宇宙のすべて」)も示す。(24-25頁)
B-2-2 「流れる」とは、流れの中に「間隙(すきま)」or「ずれ(位相差)」が生ずることだ。この事態(「過ぎ去る」と「移行する」)がはじめて時間と空間を生ぜしめる。(25頁)
B-2-3 「流れる」とは、流れのうちに時間でも空間でもない「間隙」の生ずることだ。(25頁)

B-3 「間隙」は、「今」と「たった今」(※時間)、「ここ」と「そこ」(※空間)を、「隔てると同時に結びつける」。(26頁)
B-3-2 「流れ」は、自らのうちにこの「間隙」を絶えず産み出しつつ、「流れる」こととして自らを統一している。(「流れの統一」!)「流れる」とは「間隙の産出のはたらき」だ。(26頁)
B-3-3 「流れのこの自己同一性」(「流れの統一」)を、私は「流れを構成する『縦軸の系』」と呼ぶ。(26頁)

(1)-2 事象としては「《間隙》の生起のほうが《流れ》に『先行』している」!
B-4 この場合、「まず《流れ》があって、しかる後にその流れの中に《間隙》が産出される」のでは《ない》。(27頁)
B-4-2 事象としては「《間隙》の生起のほうが《流れ》に『先行』している」。(27頁)
B-4-3 ただし「流れを流れさせる《間隙》の生起それ自体は、流れの中のどこにも姿を現さない」。つまり時間的様態としての「今」と「たった今」、空間的様態としての「ここ」と「そこ」の間に、「間隙(すきま)」があるわけでない。(27頁)

(1)-3「間隙」の生起は、「未来」すなわち《流れの「他なるもの」(E. レヴィナス)》を流れの中に出現させる!
B-5 「間隙」の生起は、「非存在」(ただし「無」ではない!「未だ存在しない」ところの「何ものか」・「第三のもの」!)としての「未来」を流れの中に出現させる。「間隙」の生起は、「いまだかつてなかったもの」つまり(時間的様態としての)「今」と「たった今」、(空間的様態としての)「ここ」と「そこ」を出現させる。(28頁)

(2)「横軸の系――『他なるもの』」:「水平に交差してくる別の流れ(※他者)の系」!(29-36頁)
(2)「この流れは《私》である」という規定は、どのようにして生じたのか?この「私」という規定はどこでどのように生じたのか?(29- 頁)
C さて「流れ」が「流れ」として気づかれるとき、そこにすでに「私」が居合わせ、この「流れ」は「私の流れ」という規定をすでに持つ。(29頁)
C-2 「この流れは《私》である」という規定は、どのようにして生じたのか?この「私」という規定はどこでどのように生じたのか?(30頁)
C-2-2 実は「この流れ」(※超越論的自我)のうちに「別の流れ」が「ともに流れる」という仕方で気づかれている時、「この流れ」は「私の流れ」となる。(31頁)
《感想1》「別の流れ」が「ともに流れる」という仕方で気づかれている時、「この流れ」は「私の流れ」となるという場合、「私」とは「これ」と同義だ。だが生じているのは《相互に他である》という事態にすぎないのではないのか?
《感想1-2》「私」とか「これ」という規定は、《このここに生じている欲望・自発性に相関する》ということではないのか?

(2)-2 「間隙」の生起は、すなわち「未来」or《流れの「他なるもの」》の生起の第2は、「水平に交差してくる別の流れ(※他者)の系」、流れの「横軸の系」の出現だ!Cf. その生起の第1は、流れの「縦軸の系」(「流れの自己同一性」or「流れの統一」)の出現だ!
C-2-3 「ともに流れる」ところの「別の流れ」(※超越論的他我)は、「流れ」の横軸の系である。(31-32頁)
C-2-4  Cf. 「間隙」の生起は、「未来」すなわち《流れの「他なるもの」》すなわち「いまだかつてなかったもの」(つまり時間的様態としての「今」と「たった今」、空間的様態としての「ここ」と「そこ」)の生起によって、第1に流れの「縦軸の系」(「流れの自己同一性」or「流れの統一」)が成立する。(24-29頁)
C-2-5 「間隙」の生起は、すなわち「未来」or《流れの「他なるもの」》or「いまだかつてなかったもの」の生起の第2は、「水平に交差してくる別の流れ(※他者)の系」、流れの「横軸の系」の出現だ。(31-32頁)

(2)-3 横軸の系の第1の層:「この流れ」と「別の流れ」がともに流れる「われわれ」の次元!(32-33頁)
C-3 「横軸の系」の第1の層は、「この流れ」と「別の流れ」がともに流れる「われわれ」の次元だ。(32頁)
C-3-2 両者は同じ一つの流れを構成する別々の部分だ。(32頁)

(2)-4 横軸の系の第2の層:「他の流れ」(他人・他者)と「私の流れ」!(33-34頁)
C-4  さて《「この流れ」と、もはやともに流れない「他の流れ」》つまり《他人・他者》の出現によって、「この流れ」は「私の流れ」という規定を得る。(33頁)
C-4-2  「この流れ」に「他の流れ」(他人・他者)が出会われるためには、それは「ともに流れる別の流れ」(「われわれ」の次元)を介してでなければならない。(34頁)
C-4-3  「ともに流れる別の流れ」が「ともに流れない」ことがありうるという仕方で、「他の流れ」(他人・他者)が「この流れ」に出会われうる。(このかぎりで「この流れ」は「私」たりうる。)(34頁)
C-4-4 「私が他なるものに出会う」(※つまり「他の流れ」=《他人・他者》との出会い)という経験が成立するためには、この「他なるもの」(※「他の流れ」)が、「ともに流れる別の流れ」を媒介にして、その流れ(※「他の流れ」)が「ともに流れない」という仕方で出会われるのでなければならない。(34頁)
C-4-5 「横軸の系の第2の層」(「他の流れ」=《他人・他者》と「私の流れ」)は、「横軸の系の第1の層『われわれ』」を基盤としてはじめて成立する。(34頁)
《感想2》まず《一者》つまり「われわれ」の次元がある。それが分化して「他の流れ」(他人・他者)と「私の流れ」となる。

(2)-4-2 私(「私の流れ」)とは、他なるもの(「他の流れ」=《他人・他者》)を、その非現前という仕方で経験しうる一箇の能力、一箇の可能性である!(34-36頁)
C-5 「他の流れ」=《他人・他者》は、私によって「経験」されるが、「直接に現前している」ということはない。「他の流れ」=《他人・他者》は、「ともに流れる」ところの「別の流れ」(※超越論的他我)が、「ともに流れない」という仕方で、いわば「否定」を媒介にした「非現前」において経験される。(35頁) 
C-5-2 《「未来」としての他なるもの》は、決して経験にもたらされない。しかし《他人としての他なるもの》は現前しないにもかかわらず、あるいは現前しないという仕方で経験される。(35頁)
C-5-3 私(「私の流れ」)とは、他なるもの(「他の流れ」=《他人・他者》)を、その非現前という仕方で経験しうる一箇の能力、一箇の可能性である。(35-36頁)

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