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浮世博史『もう一つ上の日本史、近代~現代篇』(102) 百田氏の誤り:①「共産党は山賊集団だった」と言うのは誤りだ!② 共産党だけが「中華人民共和国」を建てたわけでない!

2021-09-20 21:26:11 | Weblog
※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、近代~現代篇」(2020年)「日本の復興」の章(385-455頁)  

(102)百田氏の誤り①:「毛沢東は夜盗の親玉で共産党は山賊集団だった」と百田氏は言うが、これは一面的で誤りだ!(398-400頁) 
A 百田尚樹『日本国紀』は、「[日本の敗戦後]中国大陸では蒋介石率いる国民党と毛沢東率いる中国共産党が内戦を再開し、1949年に中国共産党が勝利して『中華人民共和国』が生まれた」(百田448頁)と述べる。
A-2 そして百田氏は中国共産党が勢力を得た理由を「一村一焼一殺、外加全没収」(百田448頁)と呼ばれる方法にあるとする。「具体的には、[屋敷は焼き]地主を人民裁判で処刑し、全財産を没収した上で、彼の土地を村人に分け与え、その代わりに村人から何人かの若者を中国共産党に兵隊として差し出させた。」(百田448頁)
A-2-2 百田氏の誤り①:また百田氏は「毛沢東は夜盗の親玉で共産党は山賊集団だった」と言うが、これは一面的で誤りだ。1927年、第1次国共合作が崩壊すると、共産党は武装蜂起を図る。毛沢東らは山岳地帯を中心にゲリラ戦を展開。(一方で)山賊や夜盗の類いの集団を糾合し、(他方で)共産党式に組織した。(399頁)
A-2-2-2 共産党式組織化では「三大紀律」、すなわち「行動は必ず指揮に従う」「人民の物は絶対に奪わない」「土豪から取り上げたものは分配する」を徹底した。こうして地主の土地を没収し農民に分配するという「土地革命」を進めた。(399頁)
A-2-2-3 「三大紀律」が徹底されたので共産党は地方の農民たちの支持を得た。山賊や夜盗では民衆の支持を得られない。(399頁)
A-2-2-4 ただし日中戦争が始まった1937年第2次国共合作後は、共産党は「土地革命」を「分配」から「減租」に変えた。(400頁)

(102)-2 百田氏の誤り②:共産党だけが「中華人民共和国」を建てたわけでない!(398-400頁) 
A-3 1945年日中戦争が終わり、1946年には国共内戦が再開する。共産党はソ連の軍事・経済援助を受けて勢力を拡大する。国民党は腐敗や、蒋介石の独裁的政権運営(Ex. 共産党への全面侵攻命令)に対しアメリカが距離を置いた。かくて共産党は、国民党以外の諸民主勢力を糾合することに成功した。(400頁)
A-3-2  百田氏の誤り②:百田氏は「1949年に中国共産党が勝利して『中華人民共和国』が生まれた」(百田448頁)と述べるが、共産党だけが「中華人民共和国」を建てたわけでない。国民党抜きの「連立政権」として人民政治協商会議が開かれて「中華人民共和国」は成立した。(400頁) 
A-3-3  かくて1949年建国から1954年までは共産党一党独裁体制でない。臨時憲法には「共産党の指導」「社会主義」という文言は出てこない。また副総理・閣僚の半数は非共産党だった。(400頁)

(102)-2-2  1954年以降、中華人民共和国は共産党一党独裁体制となる!(400-401頁)
A-4 だが1952年、毛沢東は突如、「社会主義国家建設」を唱え始める。1953年第1次5か年計画を開始し、農業の集団化に取り組みだした。百田氏の言うように「土地はすべて国家のものであるとして、農民から土地を奪い取った。」(百田448頁)(400-401頁)
A-4-2  1954年以降、中華人民共和国は共産党一党独裁体制となる。(※1954年「中華人民共和国憲法」制定、国家主席毛沢東)。閣僚ポストはすべて共産党が握る。毛沢東は自己の勢力に反対する勢力を次々に粛清し、スターリン主義を模した独裁体制に入っていった。毛沢東は、「生産手段の公有化」と「計画経済」をあまりに性急に進めたため、失敗する。(※1959年、毛沢東は「大躍進」政策の責任を取って国家主席の地位を劉少奇に譲る。)(401頁)

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