※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、近代~現代篇」(2020年)「敗戦と戦争」の章(315-384頁)
(98)-2 百田氏の誤り②:「日本の占領統治に大混乱をきたす」ことをおそれて連合国軍(GHQ)が「昭和天皇を処刑」しなかったと考えるのは、誤りだ!そもそも連合国側が天皇を戦争犯罪人として裁かなかった理由は複合的だ!(383頁)
Q-3 百田尚樹『日本国紀』は、昭和天皇を戦争犯罪人として裁かなかった理由を二つ上げる。一つは「もし昭和天皇を処刑すれば、日本の占領統治に大混乱をきたすと、GHQが判断したからである。」もう一つはマッカーサーが天皇について「その人間性に感服した」からだという。(百田440頁)
Q-3-2 百田氏の誤り②:「日本の占領統治に大混乱をきたす」ことをおそれて連合国軍(GHQ)が「昭和天皇を処刑」しなかったと考えるのは、誤りだ。「50万人の兵力で進駐して占領しているGHQ が、武装解除した日本の抵抗をおそれる理由はない。」(383頁)
《感想》もはや日本は組織的軍隊を持たない。武装解除されている。
Q-3-3 そもそも連合国側が天皇を戦争犯罪人として裁かなかった理由は複合的だ。マッカーサーが天皇について「その人間性に感服した」からではない。
(a)「戦争中の昭和天皇の言動と戦争回避の努力をGHQが評価したこと」、(b)「占領政策に天皇を利用しようとしたこと」、(c)「日本の共産化の可能性を抑えること」などだ。(383頁)
《参考》(a)「戦争中の昭和天皇の言動と戦争回避の努力をGHQが評価したこと」については、次のような例がる。(既述)
◎張作霖爆殺事件(1928年)について、田中義一内閣は首謀者の河本大作を「停職」にしただけの処分とした。「田中義一のこの対応に、昭和天皇は不満を示され、田中内閣は総辞職することになった」。(原田熊雄『西園寺公と政局』第1巻)(201-202頁)
◎陸軍の意向で1940/7、米内内閣が総辞職に追い込まれた。昭和天皇は米内内閣が瓦解した際、木戸幸一内大臣に「米內內閣を今日も尚」信任していると述べ、「內外の情勢により更迭を見るは不得止とするも、自分の氣持ちは米內に傳へる樣に」と命じた。また戦後も「もし米内内閣があのまま続いていたなら戦争(対米戦争)にはならなかったろうに」と昭和天皇が悔いていたことが知られている。
※米内内閣の後、第2次近衛内閣(1940/7-1941/7)が成立し「欧州大戦介入」・「ドイツ・イタリア・ソ連との連携」・「積極的南方進出」を3つの基本方針とした。1940/9「日独伊三国同盟」締結。(254-255頁)
◎「十五年戦争」開始の契機となった「南満州鉄道爆破事件」(柳条湖事件)(1931/9/18)と直後の軍事行動(Ex. 全線全関東軍出動,奉天攻撃、朝鮮軍の独断越境、錦州攻撃)は、天皇命令で始まったものではない。(344頁)
(ア)「朝鮮軍の独断越境」を事後報告された天皇は、「此度(コノタビ)ハ致方(イタシカタ)ナキモ将来充分注意セヨ」と述べた。1931/9/21金谷(カナヤ)参謀総長が朝鮮軍の不始末を天皇に詫びた。(344頁)
(イ) 1931/9/21、天皇は「満州事件ノ拡大セザル様トノ閣議ノ趣旨ハ適当」と、若槻礼次郎首相に政府の不拡大方針への支持を伝えた。(344頁)
(ウ) 1931/9/22、天皇は「行動ヲ拡大セザル様」と奈良武次(タケジ)侍従武官長に命じた。(344頁)
(エ) これ以後、統帥部は天皇に軍事行動の事後報告、不正確な情報の提供を続ける。他方「天皇が直接軍事行動を命令したことは確認できない」。(345頁)
(オ) 1931/10/08、本庄繁関東軍司令官が示した「張学良政権に対する否認声明」について、天皇は「本庄司令官の声明及布告は内政干渉の嫌(キライ)あり」と批判した。「出先軍部ト外務官吏トノ間ノ意見ノ相違ハ、陸軍ハ満蒙ヲ独立セシメ其政権ト交渉セントスルニ反シ外務側ハ其独立政権ヲ好マザル点ニアリト認ム、此点陸軍ノ意見適当ナラザル様思ハル。其積リニテ陸軍中央部ニ注意スルヨウニ」。(『奈良武次日記』)(345頁)
(カ) 1931/12/23、天皇は、犬養毅首相兼外相に対しても「錦州不攻撃の方針」を示し、さらに「国際間の信義を尊重すべき」と述べた。(345頁)
(キ) 1932/1/11には、天皇は「支那ノ云イ分モ少シハ通シテ遣ル方可然(シカルベク)」と攻撃の不拡大、国際関係の重視、中国との協調を示す。(346頁)
※天皇のこれらの「意見」にもかかわらず、「陸軍ハ満蒙ヲ独立セシメ」、1932/3/1満洲国が成立した。
(98)-2 百田氏の誤り②:「日本の占領統治に大混乱をきたす」ことをおそれて連合国軍(GHQ)が「昭和天皇を処刑」しなかったと考えるのは、誤りだ!そもそも連合国側が天皇を戦争犯罪人として裁かなかった理由は複合的だ!(383頁)
Q-3 百田尚樹『日本国紀』は、昭和天皇を戦争犯罪人として裁かなかった理由を二つ上げる。一つは「もし昭和天皇を処刑すれば、日本の占領統治に大混乱をきたすと、GHQが判断したからである。」もう一つはマッカーサーが天皇について「その人間性に感服した」からだという。(百田440頁)
Q-3-2 百田氏の誤り②:「日本の占領統治に大混乱をきたす」ことをおそれて連合国軍(GHQ)が「昭和天皇を処刑」しなかったと考えるのは、誤りだ。「50万人の兵力で進駐して占領しているGHQ が、武装解除した日本の抵抗をおそれる理由はない。」(383頁)
《感想》もはや日本は組織的軍隊を持たない。武装解除されている。
Q-3-3 そもそも連合国側が天皇を戦争犯罪人として裁かなかった理由は複合的だ。マッカーサーが天皇について「その人間性に感服した」からではない。
(a)「戦争中の昭和天皇の言動と戦争回避の努力をGHQが評価したこと」、(b)「占領政策に天皇を利用しようとしたこと」、(c)「日本の共産化の可能性を抑えること」などだ。(383頁)
《参考》(a)「戦争中の昭和天皇の言動と戦争回避の努力をGHQが評価したこと」については、次のような例がる。(既述)
◎張作霖爆殺事件(1928年)について、田中義一内閣は首謀者の河本大作を「停職」にしただけの処分とした。「田中義一のこの対応に、昭和天皇は不満を示され、田中内閣は総辞職することになった」。(原田熊雄『西園寺公と政局』第1巻)(201-202頁)
◎陸軍の意向で1940/7、米内内閣が総辞職に追い込まれた。昭和天皇は米内内閣が瓦解した際、木戸幸一内大臣に「米內內閣を今日も尚」信任していると述べ、「內外の情勢により更迭を見るは不得止とするも、自分の氣持ちは米內に傳へる樣に」と命じた。また戦後も「もし米内内閣があのまま続いていたなら戦争(対米戦争)にはならなかったろうに」と昭和天皇が悔いていたことが知られている。
※米内内閣の後、第2次近衛内閣(1940/7-1941/7)が成立し「欧州大戦介入」・「ドイツ・イタリア・ソ連との連携」・「積極的南方進出」を3つの基本方針とした。1940/9「日独伊三国同盟」締結。(254-255頁)
◎「十五年戦争」開始の契機となった「南満州鉄道爆破事件」(柳条湖事件)(1931/9/18)と直後の軍事行動(Ex. 全線全関東軍出動,奉天攻撃、朝鮮軍の独断越境、錦州攻撃)は、天皇命令で始まったものではない。(344頁)
(ア)「朝鮮軍の独断越境」を事後報告された天皇は、「此度(コノタビ)ハ致方(イタシカタ)ナキモ将来充分注意セヨ」と述べた。1931/9/21金谷(カナヤ)参謀総長が朝鮮軍の不始末を天皇に詫びた。(344頁)
(イ) 1931/9/21、天皇は「満州事件ノ拡大セザル様トノ閣議ノ趣旨ハ適当」と、若槻礼次郎首相に政府の不拡大方針への支持を伝えた。(344頁)
(ウ) 1931/9/22、天皇は「行動ヲ拡大セザル様」と奈良武次(タケジ)侍従武官長に命じた。(344頁)
(エ) これ以後、統帥部は天皇に軍事行動の事後報告、不正確な情報の提供を続ける。他方「天皇が直接軍事行動を命令したことは確認できない」。(345頁)
(オ) 1931/10/08、本庄繁関東軍司令官が示した「張学良政権に対する否認声明」について、天皇は「本庄司令官の声明及布告は内政干渉の嫌(キライ)あり」と批判した。「出先軍部ト外務官吏トノ間ノ意見ノ相違ハ、陸軍ハ満蒙ヲ独立セシメ其政権ト交渉セントスルニ反シ外務側ハ其独立政権ヲ好マザル点ニアリト認ム、此点陸軍ノ意見適当ナラザル様思ハル。其積リニテ陸軍中央部ニ注意スルヨウニ」。(『奈良武次日記』)(345頁)
(カ) 1931/12/23、天皇は、犬養毅首相兼外相に対しても「錦州不攻撃の方針」を示し、さらに「国際間の信義を尊重すべき」と述べた。(345頁)
(キ) 1932/1/11には、天皇は「支那ノ云イ分モ少シハ通シテ遣ル方可然(シカルベク)」と攻撃の不拡大、国際関係の重視、中国との協調を示す。(346頁)
※天皇のこれらの「意見」にもかかわらず、「陸軍ハ満蒙ヲ独立セシメ」、1932/3/1満洲国が成立した。