廿日市駅のプラットホーム上屋で木造の上屋の次に古い上屋は上り線ホームの階段を下りたすぐにある傘型の上屋とみられる。
この上屋の築造年は不明であるが1926年(昭和元年)と1928年(昭和3年)に鋳造された古レールが使用されており、レールの耐用年数が過ぎてから転用されたものとみられる。平成8年頃には柱となっているレールに1926、1928の刻印があったが、現在は厚い塗料により見難くなっている。
JR廿日市駅南口の整備と駅北土地区画整理事業に伴って駅舎は橋上駅舎に整備されるとの報道がされていたので、歴史ある施設も数年のうちに改築されるであろう。
廿日市駅のプラットホーム上屋は整備された時期により色んなタイプのものがみられる。下り線には最も古い時代の木造の上屋がみられ、平成8年頃には「建物財産標・・・昭和15年・・」と記した標示がされていたが現在では確認できなかった。この標識によりこの上屋は昭和15年(1940)以前に建築されたことがわかるのである。
串戸地区にある中国電力廿日市営業所前に設置してある掲示板に“只今の発電量88KW”と電光表示してあったが何による発電なのかは表示されてないようである。
これは屋上に設置されている太陽光発電によるもののようであり、この発電量は100KW以下の農業用水利用マイクロ水力発電程度のもののようである。
山陽道と思っている廿日市ICから大竹JCT間は国道2号線のバイパスとして築造された広島岩国道路のようであるが、通常山陽道の一部と思っている人がほとんどではなかろうか。
上り線で廿日市JCTの手前に廿日市IC方面への分岐表示板が掲げてあり、以前は”広島岩国道路 廿日市”とあったが現在では広島岩国道路の文字は消されている。ほとんどのドライバーが山陽道の一部と認識しており紛らわしいので消されたのであろうか。
本来の極楽寺廿日市参道の一部7丁碑までは廃道となって新道を通っていたが現在は復旧されており、4丁碑手前に大日如来とみられる石仏が安置されている。
刻銘によると宝暦13年(1763)に廿日市町人の寄進により建立されたものである。地域の人の話によると、昔この石仏も結婚式には持ち出されていたということである。
佐方八幡神社参道石段脇に建立されている旧観音村佐方地区の凱旋記念碑で明治39年(1906)に建立されている。
明治27・28年(1895・96)の戦役(日清戦争)、明治33年(1900)の北清事変、明治37・38年(1904・05)の戦役(日露戦争)に従軍した人々の名前が刻されている。
上平良地区にあった民家の土蔵が取り壊されており、蔵飾り「獅子に牡丹」が残念ながら消滅してしまった。
社会変化や生活様式の多様化によってかつては収穫物の収納や什器類、衣装類などの保管などをする富の象徴であった土蔵は、いまや機能が失われ便利な建物へと建替えや維持管理に要する出費の増大などで失われつつあり、建築主の願いや左官職人の技による色々な蔵飾りも消滅している。
なた豆の栽培について以前に紹介したが、なた豆の大きな莢が出来てきた。赤豆は発芽が遅かったので少し小さめである。
なた豆の莢は硬く形もまさに刃物のようでありこれにより鉈豆・刀豆の名前になったことがわかる。採取した莢の長さは30cmであった。
佐方八幡神社境内には津和野藩士堀田仁助が文化5年(1808)に寄進した石燈籠が建立されている。堀田仁助は延享4年(1747)御船屋敷で生れており、宝暦12年(1762)に津和野に移っている。
堀田仁助は数学を学び津和野藩の三大和算家と称せられ天明3年(1783)幕府の天文方属員となった。寛政11年(1799)幕府より蝦夷地の測量を命じられ、様々な測量機を作製し蝦夷地の地図を作成している。仁助の業績は蝦夷地(北海道)航海測量の先駆となった。
以前にも紹介した明治期、広島湾要塞の一つとして厳島海峡防御のために鷹ノ巣浦に設置された鷹ノ巣低砲台跡であるが、盛土上に設けられたものとみられ台風の浸食被害などで遺構跡は大きく崩壊してまさに荒れ放題である。
画面に見える遺構は二連兵舎の奥部裏壁の盛土がなくなって表われているところで、煙突状のものは換気筒で向こう側の樹木のある厚さまで盛土があったものとみられる。これらのように海岸寄りの砲座、砲側庫、胸穡、横穡、掩蔽部、繋船場などの施設は崩壊して遺構原形を留めていない。
厳島神社の高舞台・平舞台前面の本殿に向い右側の常夜金燈籠で、文久4年(1864)に白市(東広島市高屋町)の鋳物師伊原政義が鋳造したものである。
この燈籠各部には繊細な文様が鋳出されており、相当の鋳造技術が高かったことが窺われるのである。銘文によると伊原政義は鋳物師支配の真継家から勅許御鋳物師の称号を与えられていたようである。
立岩ダムの人造湖の大部分は廿日市市域にあるが画像の堰堤部分は安芸太田町に属している。人造湖は龍神湖と名付けられているようであるがほとんど知られていないようである。
昭和5年(1930)頃には69戸あった吉和川流域の旧吉和村下山地域は昭和14年(1939)の立岩ダムの完成で水没してしまった。機械化されていない時代であり工事は過酷であったようで、作業員の逃亡や多くの犠牲者もあったようである。
昨年も紹介したが山陽自動車道、宮島SAから少し西側にある法面にはタカサゴユリが群生しており、現在見ごろで周辺に甘い香りを漂わせている。
山林と化していたこの法面は数年前に伐採されて明るくなり、タカサゴユリの種子が生育して群生化したもののようだ。タカサゴユリは台湾の山地に広く野生するユリで、旺盛な繁殖力のために西日本を中心に広く野生化しているようである。
宮島の索道で宮島ロープウェーは良く知られているが、多々良林道終点(弥山奥の院口)から弥山本堂裏にも索道が設けられている。
曖昧な記憶であるがずっと以前には松くい虫の被害にあった木材を搬出していたようであり、その後に台風や火災による堂宇の被害の復旧にこの索道が使用されたようである。