地域の人達と秋祭りの子供会俵みこしの俵づくりを久しぶりに行なった。
十数年前に俵づくりの名人に教えてもらったのを思い出して8年前にリンクのような俵づくりを行ない、久しぶりに今回の手伝いとなった。
俵づくり
地域の人達と秋祭りの子供会俵みこしの俵づくりを久しぶりに行なった。
十数年前に俵づくりの名人に教えてもらったのを思い出して8年前にリンクのような俵づくりを行ない、久しぶりに今回の手伝いとなった。
俵づくり
温泉街の旧みどり荘裏山にある湯の神神社で、境内には平成12年(2000)に建立された湯来温泉開発50周年記念碑が建立されている。
県道添いで足湯跡の手前崖上には昭和25年(1950)に湯来温泉を開発した前勘一翁之碑が建立されている。大正期、湯来の冷泉として夏季に来遊が多かったものを温泉として発足し、昭和30年(1955)厚生省指定国民保養温泉、昭和32年(1957)国鉄周遊地指定となったようである。
温泉街の施設で上画像は湯来温泉観光商工同業組合が開設していた湯来温泉湯元と表示してある混浴露天風呂の跡と下画像は県道添いにある足湯の跡である。
両施設も古い施設ではないとみられるが源泉は冷泉のために加温しなければならず、温泉街の衰退によって維持するのが難しくなって閉鎖されたものとみられる。
久しぶりに湯来温泉街を散策してみると湯来ロッジ以外に温泉旅館を営業しているところはなんと河鹿荘と藤乃屋の2軒のみとなっていた。
昭和49年(1974)発行の住宅地図をみると湯来ロッジ以外に8軒の温泉旅館がみられ温泉街をなしていたのであるが、今や閑古鳥のなく寂しい温泉街となっている。
絵下山系の明神山から中野山にかけての登山道を歩いていると松茸ならぬ「くそなば」が沢山みられた。
画像で同じ種類のキノコがあるのかも知れないが、どれもきれいな色をしておりそれぞれ名前があるのだろうが・・・
先日久しぶりに絵下山系の山歩きをして広島市安芸区、安芸郡坂町、呉市の三市町境にある呉軍港境域・呉要塞地帯区域標石を探訪した。
戦時中、様々な法令によって設けられたこれらの標石区域内では色々な禁止事項や制限があったが、戦後不要になって取り除きを免れたものが所どころに残されている。
近代戦争制限区域標石について
9月7日に蒔いた廿日市9代目の桜島大根の芽が出てだいぶ育ってきた。次第に間引いて育ちの良いものを4株位にするつもりであるが害虫に葉を食べられているのでどのようになるのであろうか。
当ブログ開始の前年、平成17年に鹿児島旅行をした際桜島大根の種を購入して栽培し毎年種を取り育てているものであり、今年はどのような桜島大根になるだろうか。
昨日紹介した都井手ゲシ上の田んぼの跡で数年前まで稲作されていたが公共工事で買収されてから荒地となりゲシの楮や桑の木が進入して繁茂している。
かつて各地のゲシには楮の木を植えてこれを刈り取って紙の原料として出荷していたようであり、また桑の木もゲシに生えており養蚕の名残りであろうか。
周南市須金集落の裏手で山沿いに数基の墓碑が並んでおり片隅に一休禅師と鼠と表示された石造がみられた。
碑文によると栄昌寺は本正寺の日證師が山号を改め再建していたが昭和初期に焼失して廃寺となったようである。詳細は不明であるが宗派は日蓮宗であったようで、なぜ禅宗の一休禅師の石造があるのであろうか。
今夜は中秋の名月であり絶好の天候だ、二重原地区にある八幡さんの森にはヨゴロの昨晩灯が点けられ、神社では例年のごとくに放生会が催された。
天文16年(1547)の大願寺領所務帳(尊海文書)に「へらにゑ原領之事」として「ほうしやうゑニ白さけ五升あり」「此内一石ハ八幡のまつりニ・・・」と記されており、戦国時代の頃から八幡神社の氏子によって連綿と放生会が催されてきているのである。
周南市須金の町並みの民家土蔵にみられる蔵飾りで、漆喰細工で飛び鶴が表されたもの、文字で山マークに国の字、桝の字が表されているのは屋号か苗字の一字が表されているのだろうか。
家紋のものは九枚笹紋であるが良く見ないと笹の表示が分かりにくくなっているが、立体的に9枚の笹が表示されているのである。
周南市須金の集落は以前の山口県・広島県道徳山廿日市線(現国道434号線)沿いにある町並みで、通りに面した町屋は妻入りのものが多く廿日市では見られない造りである。
町並みには上市、中市、下市という地名が残っており、かつての繁栄を彷彿とさせる町屋が多く残されている。集落の人口はかつての10分の1のようで空き家が多くみられるようである。
宮島SAスマートICへのアクセス道路工事で上り線側、下り線分岐の大トンネルからICまでの新設道路が供用開始となっていた。
新設道路は自動車専用道で以前の道路が歩行者用の道路になるようである。現在新設道路周辺の工事が行なわれて全面開通に向けて整備が進められている。